日輪
横光利一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乙女《おとめ》たち
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|漸《ようや》く
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]
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序章
乙女《おとめ》たちの一団は水甕《みずがめ》を頭に載《の》せて、小丘《こやま》の中腹にある泉の傍から、唄《うた》いながら合歓木《ねむ》の林の中に隠れて行った。後の泉を包んだ岩の上には、まだ凋《しお》れぬ太藺《ふとい》の花が、水甕の破片とともに踏みにじられて残っていた。そうして西に傾きかかった太陽は、この小丘の裾《すそ》遠く拡《ひろが》った有明《ありあけ》の入江の上に、長く曲折しつつ※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はる》か水平線の両端に消え入る白い砂丘の上に今は力なくその光を投げていた。乙女たちの合唱は華《はな》やかな酒楽《さかほがい》の歌に変って来た。そうして、林をぬけると再び、人家を包む円《まろ》やかな濃緑色の団塊となった森の中に吸われて行った。眼界の風物、何一つとして動くものは見えなかった。
そのとき、今まで、泉の上の小丘を蔽《おお》って静まっていた萱《かや》の穂波の一点が二つに割れてざわめいた。すると、割れ目は数羽《すうわ》の雉子《きじ》と隼《はやぶさ》とを飛び立たせつつ、次第に泉の方へ真直ぐに延びて来た。そうして、間もなく、泉の水面に映っている白茅《ちがや》の一列が裂かれたとき、そこには弦《つる》の切れた短弓を握った一人の若者が立っていた。彼の大きく窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》や、その突起した顋《あご》や、その影のように暗鬱な顔の色には、道に迷うた者の極度の疲労と饑餓《きが》の苦痛が現れていた。彼は這《は》いながら岩の上に降りて来ると、弓杖《ゆんづえ》ついて崩《くず》れた角髪《みずら》をかき上げながら、渦巻《うずま》く蔓《つる》の刺青《ほりもの》を描いた唇を泉につけた。彼の首から垂れ下った一連の白瑪瑙《しろめのう》の勾玉《まがたま》は、音も立てず水に浸《ひた》って、静かに藻《も》を食う魚のように光っていた。
一
太陽は入江の水平線へ朱《しゅ》の一点となって没していった。不弥《うみ》の宮《みや》の高殿《たかどの》では、垂木《たるき》の木舞《こまい》に吊《つ》り下《さ》げられた鳥籠《とりかご》の中で、樫鳥《かけす》が習い覚えた卑弥呼《ひみこ》の名を一声呼んで眠りに落ちた。磯《いそ》からは、満潮のさざめき寄せる波の音が刻々に高まりながら、浜藻《はまも》の匂《にお》いを籠《こ》めた微風に送られて響《ひび》いて来た。卑弥呼は薄桃色の染衣《しめごろも》に身を包んで、やがて彼女の良人《おっと》となるべき卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》と向い合いながら、鹿の毛皮の上で管玉《くだだま》と勾玉とを撰《え》り分《わ》けていた。卑狗の大兄は、砂浜に輝き始めた漁夫の松明《たいまつ》の明りを振り向いて眺めていた。
「見よ、大兄、爾《なんじ》の勾玉は玄猪《いのこ》の爪《つめ》のように穢《けが》れている。」と、卑弥呼はいって、大兄の勾玉を彼の方へ差し示した。
「やめよ、爾の管玉は病める蚕《かいこ》のように曇っている。」
卑弥呼のめでたきまでに玲瓏《れいろう》とした顔は、暫《しばら》く大兄を睥《にら》んで黙っていた。
「大兄、以後我は玉の代りに真砂《まさご》を爾に見せるであろう。」
「爾の玉は爾の小指のように穢れている。」と、大兄はいうと、その皮肉な微笑を浮べた顔を、再び砂浜の松明の方へ振り向けた。「見よ、松明は輝き出した。」
「此処《ここ》を去れ。此処は爾のごとき男の入るべき処《ところ》ではない。」
「我は帰るであろう。我は爾の管玉を奪えば爾を置いて帰るであろう。」
「我の玉は、爾に穢されたわが身のように穢れている。行け。」
「待て、爾の玉は爾の霊《たましい》よりも光っている。玉を与えよ。爾は玉を与えると我にいった。」
「行け。」
卑狗の大兄は笑いながら、自分の勾玉をさらさらと小壺に入れて立ち上った。
「今宵《こよい》は何処《いずこ》で逢《あ》おう?」
「行け。」
「丸屋《まろや》で待とう。」
「行け。」
大兄は遣戸《やりど》の外へ出て行った。卑弥呼は残った管玉を引きたれた裳裾《もすそ》の端で掃《は》き散《ち》らしながら、彼の方へ走り寄った。
「大兄、我は高倉の傍で爾を待とう。」
「我はひとり月を待とう。今宵の月は満月である。」
「待て、大兄、我は爾に玉を与えよう。」
「爾の玉は、我に穢された爾のように穢れている。」
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