しながら、反絵を睥んでいった。
「爾の獲物《えもの》はこれである。」
「やめよ。我は爾と共に山を下った。」
「爾の矢は我の夫《つま》の胸に刺さっている。」
「我は爾の傍に従っていた。」
「爾の弓弦《ゆづる》は爾の手に従った。」
「爾の夫を狙った者は奴隷である。」
「奴隷はわれに従った。」
 反絵は奴隷の置き忘れた弓と矢を拾うと、破れた蜘蛛の巣を潜《くぐ》って森の中へ馳け込んだ。しかし、彼の片眼に映ったものは、霧の中に包まれた老杉と踏《ふ》み蹂《にじ》られた羊歯《しだ》の一条の路とであった。彼はその路を辿《たど》りながら森の奥深く進んでいった。しかし、彼の片眼に映ったものは、茂みの隙間から射し込んだ朝日の縞《しま》を切って飛び立つ雉子《きじ》と、霧の底でうごめく野牛の朧《おぼ》ろに黒い背であった。そうして、露はただ反絵の堅い角髪《みずら》を打った。が、路は一本の太い榧《かや》の木の前で止っていた。彼は立ち停って森の中を見廻した。頭の上から露の滴《したた》りが一層激しく落ちて来た。反絵はふと上を仰《あお》ぐと、榧の梢《こずえ》の股の間に、奴隷の蜥蜴《とかげ》の刺青《ほりもの》が青い瘤《こぶ》のように見えていた。反絵は蜥蜴を狙《ねら》って矢を引いた。すると、奴隷の身体は円《まる》くなって枝にあたりながら、熟した果実のように落ちて来た。反絵は、舌を出して俯伏《うつぶ》せに倒れている奴隷の方へ近よった。その時、奴隷の頭髪からはずれかかった一連の勾玉が、へし折れた羊歯の青い葉の上で、露に濡れて光っているのが眼についた。彼はそれをはずして自分の首へかけ垂らした。

       十七

 霧はだんだんと薄らいで来た。そうして、森や草叢《くさむら》の木立《こだち》の姿が、朝日の底から鮮《あざや》かに浮き出して来るに従って、煙の立ち昇る篠屋《しのや》からは木を打つ音やさざめく人声が聞えて来た。しかし、石窖《いしぐら》の中では、卑弥呼《ひみこ》は、格子を隔てて、倒れている訶和郎《かわろ》の姿を見詰めていた。数日の間に第一の良人《おっと》を刺され、第二の良人を撃《う》たれた彼女の悲しみは、最早《もは》や彼女の涙を誘《さそ》わなかった。彼女は乾草の上へ倒れては起き上り、起きては眼の前の訶和郎の死体を眺めてみた。しかし、角髪《みずら》を解いて血に染っている訶和郎の姿は依然、格子の外に倒れていた。そうして、再び彼女は倒れると、胸に剣《つるぎ》を刺された卑狗《ひこ》の姿が、乾草の匂いの中から浮んで来た。彼女はただ茫然《ぼうぜん》として輝く空にだんだんと溶け込む霧の世界を見詰めていた。すると、今まで彼女の胸に溢れていた悲しみは、突然|憤怒《ふんぬ》となって爆発した。それは地上の特権であった暴虐な男性の腕力に刃向う彼女の反逆であり怨恨であった。彼女の眼は次第に激しく波動する両肩の起伏につれて、益々冷たく空の一点に食い入った。ふとその時、草叢《くさむら》の葉波が描いた地平の上から立昇っている一条の煙が彼女の眼の一角に映り始めた。それは薄れゆく霧を突き破って真直ぐに立ち昇り、渦巻《うずま》きながら円を開いて拡げた翼《つばさ》のようにだんだんと空を領している煙であった。彼女は立ち上った。そうして、格子を掴《つか》むと高らかに煙に向って呼びかけた。
「ああ、大神はわれの手に触れた。われは大空に昇るであろう。地上の王よ。我れを見よ。我は爾《なんじ》らの上に日輪の如く輝くであろう。」
 石窖《いしぐら》の格子の隙から現れた卑弥呼の微笑の中には、最早や、卑狗も訶和郎も消えていた。そうして、彼らに代ってその微笑の中に潜《ひそ》んだものは、ただ怨恨を含めた惨忍な征服慾の光りであった。

       十八

 耶馬台《やまと》の宮の若者たちは、眼を醒《さ》ますと噂《うわさ》に聴いた鹿の美女を見ようとして宮殿の花園へ押しよせて来た。彼らの或《ある》者は彼女に食わすがために、鹿の好む大バコや、百合根《ゆりね》を持っていた。しかし、彼らの誰もが鹿の美女を捜し出すことが出来なくなると、やがて庭園に積まれた鹿の死体が彼らの手によって崩し出された。その時、君長《ひとこのかみ》反耶《はんや》の命を受けた一人の使部《しぶ》は厳かな容姿を真直ぐに前方へ向けながら、彼らの傍を通り抜けて石窖《いしぐら》の方へ下っていった。若者たちの幾らかは直ちに彼の後から従った。使部は石窖の前まで来るとその閂《かんぬき》をとり脱《はず》し、欅《けやき》の格子《こうし》を上に開いて跪拝《ひざまず》いた。
「王は爾《なんじ》を待っている。」
 間もなく若者たちは、暗い石窖の中から現れた卑弥呼《ひみこ》の姿を見ると、斉《ひと》しく足を停めて首を延ばした。彼女は入口に倒れている訶和郎《かわろ》を抱き上げるとそこから動こうと
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