。彼女は格子の傍へ近か寄った。そして、奴隷の臆病な犬のような二つの細い眼に嫣然《えんぜん》と微笑を投げて、彼にいった。
「来《きた》れ。」
 奴隷は眼脂《めやに》に塊《かたま》った逆睫《さかまつげ》をしばたたくと、大きく口を開いて背を延ばした。弓は彼の肩から辷《すべ》り落《お》ちた。
「爾は鹿狩りの夜を見たか。」
「見た。」
「爾は我の横に立てる男を見たか。」
「見た。」
 卑弥呼は首から勾玉《まがたま》を脱《はず》すと、彼の膝《ひざ》の上へ投げていった。
「爾は彼を見た山へ行け。爾は彼を伴なえ。爾は玉をかけて山へ行け。我は爾にその玉を与えよう。」
 奴隷は彼女の勾玉を拾って首へかけた。勾玉は彼の胸の上で、青い蜥蜴《とかげ》の刺青《ほりもの》を叩《たた》いて音を立てた。彼は加わった胸の重みを愛玩するかのように、ひとり微笑を洩《もら》しながら玉を撫《な》でた。
「夜は間もなく明けるであろう、行け。」と卑弥呼はいった。
 奴隷は立ち上った。そうして、胸を圧《おさ》えると彼の姿は夜霧の中に消えていった。しかし、間もなく、彼の足音に代って石を打つ木靴《きぐつ》の音が聞えて来た。卑弥呼は再び格子の外を見ると、そこには霧の中にひとり王の反耶《はんや》が立っていた。
「不弥の女、爾は何故に眠らぬか、我は耶馬台の国王の反耶である。」と君長《ひとこのかみ》は卑弥呼にいった。
「王よ、耶馬台の石窖は我の宮ではない。」
「爾に石窖を与えた者は我ではない。石窖は旅人の宿、もし爾を傷つけるなら、我は我の部屋を爾のために与えよう。」
「王よ、爾は何故に我が傍に我の夫《つま》を置くことを赦さぬか。」
「爾と爾の夫とを裂いた者は我ではない。」
「爾は我の夫を呼べ。夜が明ければ、我は不弥へ帰るであろう。」
「爾の行く日に我は爾に馬を与えよう。爾は爾の好む日まで耶馬台の宮にいよ。」
「王よ、爾は何故に我の滞《とどま》ることを欲するか。」
「一日滞る爾の姿は、一日耶馬台の宮を美しくするであろう。」
「王よ、我の夫を呼べ。我は彼とともに滞まろう。」
「夜が明ければ、我は爾に爾の夫と、部屋とを与えよう。」
 反耶の木靴の音は暫《しばら》く格子の前で廻っていた。そうして、彼の姿は夜霧の中へ消えていった。洞内の一隅ではひとすじの水の滴《したた》りが静かに岩を叩いていた。

       十六

 反絵《はんえ》は鹿狩りの疲労と酒とのために、計画していた卑弥呼の傍へ行くべき時を寝過した。そうして、彼が眼醒《めざ》めたときは、耶馬台《やまと》の宮は、朝日を含んだ金色《こんじき》の霧の底に沈んでいた。彼は松明《たいまつ》の炭を踏みながら、霧を浮かべた園《その》の中で、堤《つつみ》のように積み上げられた鹿の死骸の中を通っていった。彼の眠りの足らぬ足は、鹿の堤から流れ出ている血の上で辷《すべ》った。遠くの麻の葉叢《はむら》の上を、野牛の群れが黒い背だけを見せて森の方へ動いていった。するとその最後の牛の背が、遽《にわか》に歩を早めて馳け出したとき、刺青《ほりもの》のために青まった一人の奴隷の半身が、赤く血に染った一人の身体を背負って、だんだんと麻の葉叢の上に高まって来た。そうして、反絵が園を斜めに横切って、卑弥呼の石窖《いしぐら》を眺めて立った時、奴隷の蜥蜴《とかげ》は一層曲りながら、石窖へ通る岩の上を歩いていった。奴隷を睥《にら》んだ反絵の片眼は強く反《そ》りを打った鼻柱の横で輝いた。
「ああ、訶和郎《かわろ》よ。」と石窖の中から卑弥呼の声が聞えて来た。
 奴隷は背負った赤い死体の胸を石窖の格子に立てかけて、倒れぬように死体の背を押しつけた。格子の隙《すき》から卑弥呼の白い両手が延び出ると、垂れた訶和郎の首を立て直していった。
「ああ爾《なんじ》は死んだ。爾は復讐を残して死んだ。爾は我のために殺された。」
 奴隷は死体の背から手を放した。彼は歓喜の微笑をもらしながら、首の勾玉を両手で揉《も》んだ。訶和郎の死体は格子を撫《な》でて地に倒れた。
 反絵は毛の生えた逞《たくま》しいその臑《すね》で霧を揺るがしながら石窖の前へ馳けて来た。
 訶和郎を抱き上げようとして身を蹲《かが》めた奴隷は、足音を聞いて背後を向くと、反絵の唇からむき出た白い歯並《はなみ》が怒気を含んで迫って来た。奴隷は吹かれたように一飛び横へ飛びのいた。
「女はわれに玉を与えた。玉は我の玉である。」
 彼は胸の勾玉を圧えながら、櫟《いちい》と檜《ひのき》の間に張り詰った蜘蛛《くも》の網を突き破って森の中へ馳け込んだ。
 反絵は石窖の前まで来ると格子を握って中を覗《のぞ》いた。
 卑弥呼は格子に区切られたまま倒れた訶和郎の前に坐っていた。
「旅の女よ。」と反絵はいってその額《ひたい》を格子につけた。
 卑弥呼は訶和郎を指差
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