響が聞えて来た。卑弥呼は傍の訶和郎を呼び起した。
「奴国の追手が近づいた、逃げよ。」
 訶和郎は飛び起ると足で焚火《たきび》を踏み消した。再び兵士たちの鯨波《とき》の声が張り上った。二人は馬に飛び乗ると、立木に突きあたりつつ小山の頂上へ馳け登った。すると、芒《すすき》の原に掩《おお》われた小山の背面からは、一斉に枯木の林が動揺《どよ》めきながら二人の方へ進んで来た。それは牡鹿《おじか》の群だった。馬は散乱する鹿の中を突き破って馳け下った。と、原の裾《すそ》から白茅《ちがや》を踏んで一団の兵士が現れた。彼らは一列に並んだまま、裾から二人の方へ締め上げる袋の紐《ひも》のように進んで来た。訶和郎は再び鹿の後から頂上へ馳け戻った。その時、椎《しい》と蜜柑《みかん》の原の中から、再び新らしい鹿の群が頂へ向って押《お》し襲《よ》せて来た。そうして、訶和郎の馬を混えた牡鹿の群の中へ突入して来ると、鹿の団塊は更に大きく混乱しながら、吹き上げる黒い泡のように頂上で動揺《どよ》めいた。しかし、間もなく、渦巻く彼らの団塊は、細長く山の側面に川波のように流れていった。と行手の裾に、兵士たちの松明《たいまつ》が点々と輝き出した。そうして、それらの松明は、見る間に一列の弧線を描いて拡がると、忽《たちま》ち全山の裾を円形に取り包んで縮まって来た。鹿の流れは訶和郎の馬を浮べて逆上した。再び彼らの団塊は、小山の頂で踏み合い乗り合いつつ沸騰した。松明を映した鹿の眼は、明滅しながら弾動する無数の玉のように輝いた。その時、一つの法螺《ほら》が松明の中で鳴り渡った。兵士たちの収縮する松明の環《わ》は停止した。それと同時に、芒の原の空中からは一斉に矢の根が鳴った。鹿の群れは悲鳴を上げて散乱した。訶和郎の馬は跳ね上った。と、訶和郎は卑弥呼を抱いたまま草の上に転落した。しかし、彼は窪地の中に這《は》い降《お》りると、彼女の楯《たて》のようにひれ伏して矢を防いだ。矢に射られた鹿の群れは、原の上を狂い廻って地に倒れた。忽ち窪地の底で抱き合う二人の背の上へ、鹿の塊《かたま》りがひき続いて落ち込むと、間もなく、雑然として盛り上った彼らは、突き合い蹴り合いつつ次第に静《しずか》に死んでいった。そうして、彼らの傷口から迸《ほとばし》る血潮は、石垣の隙間を漏れる泉のように滾々《こんこん》として流れ始めると、二人の体を染めながら、窪地の底の蘚苔《こけ》の中まで滲み込んでいった。

       十四

 訶和郎《かわろ》と卑弥呼《ひみこ》を包んだ兵士《つわもの》たちは、君長《ひとこのかみ》に率いられて、遠巻きに鹿の群れを巻き包んで来た耶馬台《やまと》の国の兵士であった。彼らは小山の頂上で狂乱する鹿の群れの鎮《しずま》るのを見ると、松明《たいまつ》の持ち手の後から頂きへ馳《か》け登《のぼ》った。明るく輝き出した頂は、散乱した動かぬ鹿の野原であった。やがて、兵士たちは松明の周囲へ尽《ことごと》く集って来ると、それぞれ一疋《いっぴき》の鹿を引《ひ》き摺《ず》って再び山の麓の方へ降りていった。その時、頂上の窪地の傍で群《むらが》った一団の兵士たちが、血に染った訶和郎と卑弥呼を包んで喧騒した。二人を見られぬ人たちは、遠く人垣の外で口々にいい合った。
「鹿の中から美女と美男が湧《わ》いて出た。」
「赤い美女が鹿の腹から湧いて出た。」
「鹿の美女は人間の美女よりも美しい。」
 やがて、兵士たちの集団は、訶和郎と卑弥呼を包んだまま、彼らの君長の反耶《はんや》の方へ進んでいった。
「王よ。」と兵士たちの一人は跪拝《ひざまず》いて反耶にいった。「鹿の中から若い男女が現れた。彼らを撃つか。」
 君長の反耶は、傍の兵士の持った松明をとると、頭上に高くかざして二人の姿を眺めていた。
「我らは遠く山を越えて来《きた》れる不弥《うみ》の者。我らを放せ。」と訶和郎はいった。反耶の視線は訶和郎から卑弥呼の方へ流された。
「爾《なんじ》は不弥の国の旅人か。」
「然《しか》り、我らは不弥へ帰る旅の者。我らを赦《ゆる》せ。」と卑弥呼はいった。
「耶馬台の宮はかの山の下。爾らは我の宮を通って旅に行け。」
「赦せ。われらの路は爾の宮より外《はず》れている。われらは明日の旅を急ぐ者。」
 反耶は松明を投げ捨てて、兵士たちの方へ向き返った。
「行け。」
 兵士たちは王の言葉を口々にいい伝えて動揺《どよ》めき立った。再び小山の頂では地を辷《す》べる鹿の死骸の音がした。その時、突然、卑弥呼の頭に浮んだものは、彼女自身の類い稀なる美しき姿であった。彼女は耶馬台の君長を味方にして、直ちに奴国《なこく》へ攻め入る計画を胸に描いた。
「待て、王よ。」と卑弥呼はいうと、並んだ蕾《つぼみ》のような歯を見せて、耶馬台の君長に微笑を投げた。「爾はわれらを爾
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