復讐するであろう。」
「するか。」
「我は復讐する。我は長羅を殺す。」
「するか。」
「我は爾の夫に代って、爾の父と母に代って復讐する。」
「するか。」
「我は爾を不弥と奴国の王妃にする。」
その夜二人は婚姻した。頭の上には、蘭《らん》を飾った藤蔓《ふじづる》と、数条の蔦《つた》とが欅《けやき》の枝から垂れ下っていた。二人の臥床は羊歯《しだ》と韮《にら》と刈萱《かるかや》とであった。そうして卑弥呼《ひみこ》は、再び新らしい良人《おっと》の腕の中に身を横たえた。訶和郎《かわろ》は馬から鹿の毛皮で造られた馬氈《ばせん》を降《おろ》して、その妻の背にかけた。月は昇った。訶和郎は奴国の追い手を警戒するために、剣を抜いたまま眠らなかった。※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》は楠《くす》の穴から出てくると、ひとり枝々の間を飛び渡った。月の映る度《たび》ごとに、※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠の眼は青く光って輝いた。そうして訶和郎の二つの眼と剣の刃は、山韮と刈萱の中で輝いた。
その時、突然、卑弥呼は身を顫《ふる》わせて訶和郎の腕の中で泣き出した。
十二
その夜から、奴国《なこく》の野心ある多くの兵士《つわもの》たちは、不弥《うみ》の女を捜すために宮を発った。彼らの中に荒甲《あらこ》という一人の兵士があった。彼の額《ひたい》から片頬《かたほお》にかけて、田虫《たむし》が根強く巣を張っていたために、彼の※[#「王+夬」、第3水準1−87−87]形《けっけい》の刺青《ほりもの》は、奴国の誰よりも淡かった。彼は卑弥呼《ひみこ》が遁走《とんそう》した三日目の真昼に、森を脱け出た河原の岸で、馬の嘶《いなな》きを聞きつけた。彼は芒《すすき》を分けてその方へ近づくと、馬の傍で、足を洗っている不弥の女の姿が見えた。荒甲は背を延ばして馳け寄ろうとした時に、兎と沙魚《はぜ》とを携《さ》げた訶和郎が芒の中から現れた。
「ああ、爾《なんじ》は荒甲、不弥の女を爾は見たか。」
荒甲は黙って不弥の女の姿を指さした。訶和郎は荒甲の首に手をかけた。と、荒甲の身体は、飛び散る沙魚と兎とともに、芒の中に転がされた。訶和郎は石塊を抱き上げると、起き上ろうとする荒甲の頭を目蒐《めが》けて投げつけた。荒甲の田虫は眼球と一緒に飛び散った。そうして、芒の茎にたかると、濡れた鶏頭《とさか》のようにひらひらとゆらめいた。訶和郎は死体になった荒甲の胴を一蹴りに蹴ると、追手《おって》の跫音《あしおと》を聞くために、地にひれ伏して苔《こけ》の上に耳をつけた。彼は妻の傍にかけていった。
「奴国の追手が近づいた。乗れ。」
馬は卑弥呼と訶和郎を乗せて瀬を渡った。数羽の山鴨《やまがも》と雀《すずめ》の群れが柳の中から飛び立った。前には白雲を棚曳《たなび》かせた連山が真菰《まこも》と芒の穂の上に連っていた。
「かの山々は。」
「不弥の山。」
「追手は不弥へ廻るであろう。」
「廻るであろう。」
卑弥呼は訶和郎と共に不弥に残った兵士たちを集めて奴国へ征《せ》め入《い》る計画を立てていた。しかし、二人を乗せた馬の頭は進むに従い、不弥を外《はず》れて耶馬台《やまと》の方へ進んでいった。秋の光りは訶和郎の背中に廻った衣の結び目を中心として、羽毛の畑のような芒の穂波の上に明るく降り注いだ。そうして、微風が吹くと、一様に背を曲げる芒の上から、首を振りつつ進む馬の姿が一段と空に高まった。空では鷸子《つぶり》と鳶《とび》とが円《まる》く空中の持ち場を守って飛んでいた。
十三
その夜二人は数里の森と、二つの峰とを越して小山の原に到着した。そこには椎《しい》と蜜柑《みかん》が茂っていた。猿は二人の頭の上を枝から枝へ飛び渡った。訶和郎《かわろ》は野犬と狼《おおかみ》とを防ぐために、榾柮《ほだ》を焚《た》いた。彼らは、数日来の経験から、追手の眼より野獣の牙《きば》を恐れねばならなかった。卑弥呼《ひみこ》はひとり訶和郎に添って身を横たえながら目覚めていた。なぜなら、その夜は彼女の夜警の番であったから。夜は更《ふ》けた。彼女は椎の梢《こずえ》の上に、群《むらが》った笹葉《ささば》の上に、そうして、静《しずか》な暗闇に垂れ下った藤蔓《ふじづる》の隙々《すきずき》に、亡き卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》の姿を見た。
卑狗の大兄の幻が彼女の眼から消えてゆくと、彼女は涙に濡れながら、再び燃え尽きる榾柮の上へ新らしく枯枝を盛り上げた。猿の群れは梢を下りて焚火の周囲に集ってきた。そうして、彼女が枯枝を火に差《さ》し燻《く》べるごとに、彼らも彼女を真似て差し燻べた。
榾柮の次第に尽きかけた頃、山麓の闇の中から、突然に地を踏み鳴らす軍勢の
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