を願う者。」
「我は爾を愛す。」
長羅は鹿の御席《みまし》の毛皮を宿禰に投げつけて立ち去った。
宿禰はその日、漸《ようや》く投げ槍と楯《たて》との準備を兵士《つわもの》たちに命令した。
四日がたった。そうして、第三の偵察兵が奴国の宮へ帰って来た。彼は、不弥の宮では、王女|卑弥呼《ひみこ》の婚姻が数日の中《うち》に行われることを報告した。長羅の顔は、見る見る中に蒼《あお》ざめた。
「宿禰、銅鑼《どら》を鳴らせ、法螺《ほら》を吹け、爾は直ちに武器庫の扉を開け。」
「王子よ。我らの聞いた三つの報導は違っている。」
長羅は無言のまま宿禰を睥《にら》んで突き立った。
「王子よ、二つの報告は残っている。」
長羅の唇と両手は慄えて来た。
「待て、王子よ、長き時日は、重き宝を齎《もたら》すであろう。」
長羅の剣は宿禰の上で閃《ひらめ》いた。宿禰の肩は耳と一緒に二つに裂けた。
間もなく、兵士を召集する法螺と銅鑼が奴国の宮に鳴り響いた。兵士たちは八方から武器庫へ押し寄せて来た。彼らの中には、弓と剣と楯とを持った訶和郎《かわろ》の姿も混っていた。彼は、この不意の召集の理由を父に訊《き》き正《ただ》さんがために、ひとり王宮の中へ這入《はい》っていった。しかし、寂寞《せきばく》とした広間の中で彼の見たものは、御席《みまし》の上に血に塗《まみ》れて倒れている父の一つの死骸であった。
「ああ、父よ。」
彼は楯と弓とを投げ捨てて父の傍へ馳《か》け寄《よ》った。彼は父の死の理由の総《すべ》てを識《し》った。彼は血潮の中に落ちている父の耳を見た。
「ああ、父よ、我は復讐するであろう。」
彼は父の死体を抱き上げようとした。と、父の片腕は衣の袖《そで》の中から転がり落ちた。
「待て、父よ、我は爾に代って復讐するであろう。」
訶和郎は血の滴《したた》る父の死体を背負うと、馳《は》せ違《ちが》う兵士たちの間をぬけて、ひとり家の方へ帰って来た。
やがて、太陽は落ちかかった。そうして、長羅を先駆に立てた奴国の軍隊は、兵部の宿禰の家の前を通って不弥の方へ進軍した。訶和郎の血走った眼と、香取の泣き濡れた眼とは、泉の傍から、森林の濃緑色の団塊に切られながら、長く霜のように輝いて動いて行く兵士たちの鉾先《ほこさき》を見詰めていた。
八
不弥《うみ》の宮には、王女|卑弥呼《ひみこ》の婚姻の夜が来た。卑弥呼は寝殿の居室で、三人の侍女を使いながら式場に出るべき装いを整えていた。彼女は斎杭《いくい》に懸った鏡の前で、兎の背骨を焼いた粉末を顔に塗ると、その上から辰砂《しんしゃ》の粉を両頬に掃《は》き流《なが》した。彼女の頭髪には、山鳥の保呂羽《ほろば》を雪のように降り積もらせた冠《かんむり》の上から、韓土《かんど》の瑪瑙《めのう》と翡翠《ひすい》を連ねた玉鬘《たまかずら》が懸かっていた。侍女の一人は白色の絹布を卑弥呼の肩に着せかけていった。
「空の下で、最も美しき者は我の姫。」
侍女の一人は卑弥呼の胸へ琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》の勾玉《まがたま》を垂れ下げていった。
「地の上の日輪《にちりん》は我の姫。」
橘《たちばな》と榊《さかき》の植《うわ》った庭園の白洲《しらす》を包んで、篝火《かがりび》が赤々と燃え上ると、不弥の宮人たちは各々手に数枚の柏《かしわ》の葉を持って白洲の中へ集って来た。やがて、琴と笛と法螺《ほら》とが緩《ゆる》やかに王宮の※[#「木+長」、第4水準2−14−94]《ほこだち》の方から響いて来た。十人の大夫《だいぶ》が手火《たび》をかかげて白洲の方へ進んで来た。続いて、幢《はたぼこ》を持った三人の宿禰《すくね》が進んで来た。それに続いて、剣を抜いた君長《ひとこのかみ》が、鏡を抱いた王妃《おうひ》が、そうして、卑弥呼は、管玉《くだだま》をかけ連ねた瓊矛《ぬぼこ》を持った卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》と並んで、白い孔雀《くじゃく》のように進んで来た。宮人たちは歓呼の声を上げながら、二人を目がけて柏の葉を投げた。白洲の中央では、王妃のかけた真澄鏡《ますみかがみ》が、石の男根に吊《つ》り下《さ》がった幣《ぬさ》の下で、松明《たいまつ》の焔《ほのお》を映して朱の満月のように輝いた。その後の四段に分れた白木の棚の上には、野の青物《あおもの》が一段に、山の果実と鳥類とが二段目に、鮠《はえ》や鰍《かじか》や鯉《こい》や鯰《なまず》の川の物が三段に、そうして、海の魚と草とは四段の段に並べられた。奏楽が起り、奏楽がやんだ。君長は鏡の前で、剣を空に指差していった。
「ああ無窮なる天上の神々よ、われらの祖先よ、二人を守れ。ああ広大なる海の神々よ、地の神々よ、二人を守れ、ああ爾《なんじ》ら忠良なる不弥の宮の臣民よ、二人を守れ、
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