に兵士たちの間を馳け廻っていた。出陣の用意は整った。長羅の正しく突《と》がった鼻と、馬の鼻とは真直に耶馬台を睨んで進んでいった。数千の兵士たちは、互に敵となって塊《かたま》った大集団を作りながら、声を潜《ひそ》めて彼の後から従った。長羅の馬は耶馬台へ近か寄るに従って、次第にひとり兵士たちから放れて前へ急いだ。このため兵士たちは休息することを忘れねばならなかった。しかし、彼らはその熱情を異にする長羅の後に続くことは不可能なことであった。そうして、二日がたった。兵士たちは、ある河岸へ到着したときは、最早《もはや》前進することも出来なかった。彼らはその日、まだ太陽の輝いている中《うち》から河原の芒《すすき》の中で夜営の準備にとりかかった。
 遠い国境の山の峯が一つ高々と煙を吐いていた。太陽は桃色に変って落ち始めた。そのとき、遽《にわか》に対岸の芒の原がざわめき立った。そうして、一斉に水禽《みずどり》の群れが列を乱して空高く舞い上ると、間もなく、数千の鋒尖が芒の穂の中で輝き出した。
「耶馬台の兵が押し寄せた。」
「耶馬台の兵が攻め寄せた。」
 奴国《なこく》の兵士たちは動乱した。しかし、彼らは休息を忘れて歩行し続けた疲労のために、かえって直ちにその動乱を整えて、再び落ちつきを奪回することに容易であった。彼らは応戦の第一の手段として、鋒や剣やその他|総《すべ》ての武器を芒の中に伏せて鎮《しず》まった。何《な》ぜなら、彼らは奴国の兵の最も特長とする戦法は夜襲であることを知っていた。数名の斥候《せっこう》が川上と川下から派出された。長羅は一人高く馬上に跨って対岸を見詰めていた。川には浅瀬が中央にただ一線流れていた。そうして、その浅瀬の両側には広い砂地が続いていた。
 夜は次第に降りて来た。対岸の芒の波は、今は朧《おぼ》ろに背後の山の下で煙って見えた。その時、突然対岸からは銅鑼《どら》がなった、すると、尾に火をつけられた一団の野牛の群れが、雲のように棚曳《たなび》いた対岸の芒の波を蹴破って、奴国の陣地へ突進して来た。奴国の兵は野牛の一団が真近まで迫ったときに、一斉に彼らの群へ向って矢を放った。牛の群は鳴き声を上げて突き立つと、逆に耶馬台の陣地の方へ猛然と押し返した。奴国の兵は牛の後から対岸に向って押し寄せようとした。しかし、長羅は彼らの前を一直線に馬を走らせてその前進を食いとめた。と、斉《ひと》しく野牛の群は、対岸から放たれ出した矢のために、再び逆流して奴国の方へ向って来た。それと同時に鯨波《とき》の声が対岸から湧き上ると、野牛の群れの両翼となって、投げ槍の密集団が、砂地を蹴って両方から襲って来た。奴国の兵は直ちに川岸に添って長く延びた。そうして、その敵の密集団に向って一斉に矢を放つと、再び密集団は彼らの陣営へ引き返した。野牛の群は狂いながらひとり奴国の兵の断ち切れた中央を突きぬけて、遠く後方の森の中へ馳け過ぎた。
 夜は全く降りていた。国境の噴火の煙は火の柱となって空中に立っていた。奴国の兵の夜襲の時は迫って来た。しかし、彼らの疲労は一段と増していた。彼らは敵の陣地の鎮まると一緒に芒の中に腰を下して休息した。長羅は彼らの疲労の状態に気がつくと、その計画していた夜襲を断念しなければならなかった。けれども、奴国の軍は次に来るべき肉迫戦のときまでに、敵の陣営から矢をなくしておかねばならなかった。それには夜の闇が必要であった。彼らは疲労の休まる間もなく、声を潜めて川原の中央まで進んで出ると、盾《たて》を塀のように横につらねて身を隠した。そうして、彼らは一斉に足を踏みたたき、鯨波《とき》の声を張り上げて肉迫する気勢を敵に知らしめた。対岸からは矢が雨のように飛んで来て盾にあたった。彼らは引きかえすとまた進み、退《しりぞ》いては再び喊声《かんせい》を張り上げた。そうして、時刻を隔《お》いてこの数度の牽制《けんせい》を繰り返している中《うち》に、最早対岸からは矢が飛ばなくなって来た。しかし、彼らに代って敵からの牽制が激しくなった。初め奴国の兵は敵の喊声が肉迫する度に、恐怖のために思わず彼らに向って矢を放った。けれども、それが数度続くと、彼らは敵軍の夜襲も所詮自国の牽制と等しかったことに気付いて矢を惜しんだ。夜はだんだんと更《ふ》けていった。眠ったように沈黙し合った両軍からは、盛に斥候が派せられた。川上と川下の砂地や芒の中では小さな斥候戦が方々で行われた。こうして、夜は両軍の上から明けていった。朝日は奴国の陣地の後方から昇り初めた。耶馬台の国の国境から立ち昇る噴火の柱は再び煙の柱に変って来た。そうして、両軍の間には、血の染《にじ》んだ砂の上に、矢の刺った屍《しかばね》や牛の死骸が朝日を受けて点々として横たわっていた。そのとき、耶馬台の軍はまばらに一列に横隊を
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