ょうよう》として見詰めていた。すると、彼女の唇の両端から血がたらたらと流れて来た。彼女の蒼ざめた顔色は、一層その色が蒼ざめて落つき出した。彼女の身体は端坐したまま床の上に傾くと、最早《もは》や再びとは起き上って来なかった。こうして、兵部《ひょうぶ》の宿禰の娘は死んだ。彼女は舌を咬《か》み切《き》って自殺した。しかし、横たわっている長羅の身体は身動きもしなかった。

 香取の死の原因を知らなかった奴国の宮の人々は、一斉に彼女の行為を賞讃した。そうして、長羅を戴く奴国の乙女たちは、奴国の女の名誉のために、不弥《うみ》の女から王子の心を奪い返せと叫び始めた。第四の乙女が香取の次ぎに選ばれて再び立った。人々は斉しく彼女の美しさの効果の上に注目した。すると、俄然《がぜん》として彼女は香取のように自殺した。何《な》ぜなら香取を賞讃した人々の言葉は、あまりに荘厳であったから。しかし、また第五の乙女が宿禰のために選ばれた。人々の彼女に注目する仕方は変って来た。けれども、彼女の運命も第四の乙女のそれと等しく不吉な慣例を造らなければならないのは当然のことであった。こうして、奴国の宮からは日々に美しい乙女が減りそうになって来た。娘を持った奴国の宮の母親たちは急に己の娘の美しい装いをはぎとって、農衣に着せ変えると、宿禰の眼から家の奥深くへ隠し始めた。しかし宿禰はひとり、ますます憂慮に顰《ゆが》んだ暗鬱な顔をして、その眼を光らせながら宮の隅々をさ迷うていた。第六番目の乙女が選ばれて立った。人々は恐怖を以て彼女の身の上を気遣《きづか》った。その夜、彼らは乙女の自殺の報《し》らせを聞く前に、神庫《ほくら》の前で宿禰が何者かに暗殺されたという報導を耳にした。しかし、長羅の横たわった身体は殆ど空虚に等しくなった王宮の中で、死人のように動かなかった。
 或る日、一人の若者が、王宮の門前の榧《かや》の※[#「木+長」、第4水準2−14−94]《ほこだち》を見ると、疲れ切った体をその中へ馳け込ませてひとり叫んだ。
「不弥《うみ》の女を我は見た。不弥の女を我は見た。」
 若者の声に応じて出て来る者は誰もなかった。彼は高縁《たかえん》に差し込んだ太陽の光りを浴びて眠っている童男の傍を通りながら、王宮の奥深くへだんだんと這入《はい》っていった。
「不弥の女を我は見た。不弥の女は耶馬台《やまと》にいる。」
 長羅
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