は若者の声を聞くと、矢の音を聞いた猪のように身を起した。彼の顔は赧《あか》らんだ。
「這入れ、這入れ。」しかし、彼の声はかすれていた。若者の呼び声は、長羅の部屋の前を通り越して、八尋殿《やつひろでん》へ突きあたり、そうして、再び彼の方へ戻って来た。長羅は蹌踉《よろ》めきながら杉戸の方へ近寄った。
「這入れ、這入れ。」
 若者は杉戸を開けると彼を見た。
「王子よ、不弥の女を我は見た。」
「よし、水を与えよ。」
 若者は馳《か》けて行き、馳けて帰った。
「不弥の女は耶馬台にいる。」
 長羅は※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1−88−72]《もい》の水を飲み干した。
「爾《なんじ》は見たか。」
「我は見た、我は耶馬台の宮へ忍び入った。」
「不弥の女は何処《いずこ》にいた。」
「不弥の女を我は見た。不弥の女は耶馬台の宮の王妃《おうひ》になった。」
 長羅は激怒に圧伏されたかのように、ただ黙って慄《ふる》えながら床の上の剣《つるぎ》を指差していた。
「王子よ、耶馬台の王は戦いの準備をなした。」
「剣を拾え。」
 若者は剣を長羅に与えると再びいった。
「王子よ、耶馬台の王は、奴国の宮を攻めるであろう。」
「耶馬台を攻めよ。兵を集めよ。我は爾を宿禰にする。」
 若者は喜びに眉毛《まゆげ》を吊り上げて黙っていた。
「不弥の女を奪え。耶馬台を攻めよ。兵を集めよ。」
 若者は※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1−88−72]《もい》を蹴って部屋の外へ馳け出した。間もなく、法螺《ほら》が神庫《ほくら》の前で高く鳴った。それに応じて、銅鑼《どら》が宮の方々から鳴り出した。

       二十六

 耶馬台《やまと》の宮では、反絵《はんえ》の狂暴はその度を越えて募《つの》って来た。それにひきかえ、兵士《つわもの》たちの間では、卑弥呼《ひみこ》を尊崇する熱度が戦いの準備の整って行くに従って高まって来た。何《な》ぜなら、いまだかつて何者も制御し得なかった反絵の狂暴を、ただ一睨《いちげい》の視線の下に圧伏さし得た者は、不弥《うみ》の女であったから。そうして、彼女のために、反絵の剣の下からその生命を救われた数多くの者たちは彼らであった。彼らは彼らの出征の結果については必勝を期していた。何ぜなら、いまだ何者も制御し得なかった耶馬台の国の大なる恐怖を、ただ一睨の下に圧伏さし得る不
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