として、彼女の愛翫《あいがん》し続けて来た黄金の鐶であった。彼女は牛車から降りると、一人の童男に共《とも》なわれて宿禰の部屋へ這入《はい》っていった。宿禰は暫《しばら》く彼女の姿を眺めていた。そうして、彼はひとり得意な微笑をもらしながら、長羅の部屋の方を指差して彼女にいった。
「行け。」
 香取は命ぜられるままに長羅の部屋の杉戸の方へ歩いていった。彼女の足は戸の前まで来ると立《た》ち悚《すく》んだ。
「行け。」と再び後《うし》ろで宿禰の声がした。
 彼女は杉戸に手をかけた。しかし、もし彼女が不弥の女に負けたなら、そうして、彼女が、もし奴国の女を穢《けが》したときは?
「行け。」と宿禰の声がした。
 彼女の胸は激しい呼吸のために波立った。が、それと同時に彼女の唇は決意にひき締って慄《ふる》えて来た。彼女は手に力を籠《こ》めながら静《しずか》に杉戸を開いてみた。彼女の長く心に秘めていた愛人は、毛皮の上に横わって眠っていた。しかし、彼女の頭に映っていたかつての彼の男々《おお》しく美しかったあの顔は、今は拡まった窪《くぼ》みの底に眼を沈ませ、髯《ひげ》は突起した顋《おとがい》を蔽《おお》って縮まり、そうして、彼の両頬は餓えた鹿のように細まって落ちていた。
「王子、王子。」
 彼女は跪拝《ひざまず》いて小声で長羅を呼んだ。彼女の声はその気高き容色の上に赧《あか》らんだ。しかし、長羅は依然として彼女の前で眠っていた。彼女は再び膝を長羅の方へ進めて行った。
「王子よ、王子よ。」
 すると、突然長羅の半身は起き上った。彼は爛々《らんらん》と眼を輝かせて、暫く部屋の隅々を眺めていた。そうして、漸《ようや》く跪拝いている香取の上に眼を注ぐと、彼の熱情に輝いたその眼は、急に光りを失って細まり、彼の身体は再び力なく毛皮の上に横たわって眼を閉じた。香取の顔色は蒼然《そうぜん》として変って来た。彼女は身を床の上に俯伏《うつぶ》せた。が、再び弾《はじ》かれたように頭を上げると、その蒼《あお》ざめた頬に涙を流しながら、声を慄《ふる》わせて長羅にいった。
「王子よ、王子よ、我は爾《なんじ》を愛していた。王子よ、王子よ、我は爾を愛していた。」
 彼女は不意に言葉を切ると、身体を整えて端坐した。そうして、頭から静かに、玉鬘《たまかずら》を取りはずし、首から勾玉をとりはずすと、長羅の眼を閉じた顔を従容《し
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