蚯蚓《みみず》と、酢漿草《かたばみそう》と、童女の経水《けいすい》とを混ぜ合せた液汁を長羅に飲ませるために苦心した。しかし長羅はそれさえも飲もうとはしなかった。そこで、宿禰は奴国の宮の乙女《おとめ》たちの中から、優れた美しい乙女を選抜して、長羅の部屋へ導き入れることを計画した。しかし、第一日に選ばれた乙女と次の乙女の美しさは、長羅の引き締った唇の一端さえも動かすことが出来なかった。宿禰は憂慮に悩んだ顔をして、自ら美しい乙女を捜し出さんがため、奴国の宮の隅々《すみずみ》を廻り始めた。その噂《うわさ》を聞き伝えた奴国の宮の娘を持った母親たちは、己《おのれ》の娘に華《はな》やかな装《よそお》いをこらさせ、髪を飾らせて戸の外に立たせ始めた。そうして、彼女自身は己の娘を凌駕《りょうが》する美しい娘たちを見たときにはそれらの娘たちの古い悪行を、通る宿禰の後から大声で饒舌《しゃべ》っていった。こうして、第三に選ばれた美しい乙女は、娘を持つ奴国の宮の母親たちのまだ誰もが予想さえもしなかった訶和郎《かわろ》の妹の香取《かとり》であった。しかし、己の娘の栄誉を彼女のために奪われた母親たちの誰一人として、香取の美貌と行跡について難ずるものは見あたらなかった。何《な》ぜなら、香取の父は長羅に殺された宿禰であったから。彼女は父の惨死に次いで、兄の逃亡の後は、ただ一人訶和郎の帰国するのを待っていた。彼女にとって、父を殺した長羅は、彼女の心の敵とはならなかった。彼女の敵は、彼女がひとり胸底深く秘め隠していた愛する王子長羅を奪った不弥《うみ》の女の卑弥呼《ひみこ》であった。そうして、彼女の父を殺した者も、彼女にとっては、彼女を愛する王子長羅をして彼女の父を殺さしめた不弥の女の卑弥呼であった。選ばれた日のその翌朝、香取は宮殿から送られた牛車《ぎっしゃ》に乗って登殿した。彼女は宿禰が彼女を選んだその理由と、彼女に与えられた重大な責任とを、他に選ばれた乙女たちの誰よりも深く重く感じていた。彼女は藤色の衣を纏《まと》い、首からは翡翠《ひすい》の勾玉《まがたま》をかけ垂し、その頭には瑪瑙《めのう》をつらねた玉鬘《たまかずら》をかけて、両肱《りょうひじ》には磨かれた鷹《たか》の嘴《くちばし》で造られた一対の釧《くしろ》を付けていた。そうして、彼女の右手の指に嵌《はま》っている五つの鐶《たまき》は、亡き母の片身
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