を冠って寝ている反絵の口を開いた顎《あご》とであった。
「不弥の女、不弥の女。」
 彼は立ち上って卑弥呼の部屋へ行こうとしたとき、反絵の足に蹉《つまず》いて前にのめった。しかし、彼の足は急いでいた。彼は蹌踉《よろ》めきながら、彼女の部屋の方へ近づくと、その遣戸《やりど》を押して中に這入《はい》った。
「不弥の女。不弥の女。」
 卑弥呼《ひみこ》は白鷺の散乱した羽毛の上に倒れたまま動かなかった。
 反耶は卑弥呼の傍へ近寄った。そうして、片膝をつきながら彼女の背中に手をあてて囁《ささや》いた。
「起きよ、不弥の女、我は爾の傍へ来た。」
 卑弥呼は反耶の力に従って静かに仰向《あおむけ》に返ると、涙に濡れた頬に白い羽毛をたからせたまま彼を見た。
「爾《なんじ》は何故に我を残してひとり去った。」と反耶はいった。
 卑弥呼は黙って慾情に慄《ふる》える反耶の顔を眺め続けた。
「不弥の女。我は爾を愛す。」
 反耶は唇を慄わせて卑弥呼の胸を抱きかかえた。卑弥呼は石のように冷然として耶馬台《やまと》の王に身をまかせた。
 そのとき、部屋の外から重い跫音《あしおと》が響いて来た。そうして、彼女の部屋の遣戸が急に開くと、そこへ現れたのは反絵《はんえ》であった。彼は二人の姿を見ると突き立った。が、忽《たちま》ち彼の下顎は狂暴な嫉妬《しっと》のために戦慄した。彼は歯をむき出して無言のまま猛然と反耶の方へ迫って来た。
「去れ。去れ。」と反耶はいって卑弥呼の傍から立ち上った。
 反絵は、恐怖の色を浮かべて逃げようとする反耶の身体を抱きかかえると、彼を円木《まろき》の壁へ投げつけた。反耶の頭は逆様《さかさま》に床を叩いて転落した。反絵は腰の剣《つるぎ》をひき抜いた。そうして、露わな剣を跳《は》ねている兄の脇腹へ突き刺した。反耶は呻《うめ》きながら刺された剣を握って立ち上ろうとした。が、反絵は再び彼の胸を斬《き》り下《さ》げた。反耶は卑弥呼の方へ腹這《はらば》うと、彼女の片足を攫《つか》んで絶息した。しかし卑弥呼は横たわったまま身動きもせず、彼女の足を握っている王の指先を眺めていた。反絵はまた陽《ひ》に逢《あ》わぬ影のように青黒くなって反耶の傍に突き立っていた。やがて、反絵の手から剣が落ちた。静かな部屋の中で、床に刺って横に倒れる剣の音が一度した。
「卑弥呼、我は兄を殺した。爾《なんじ》は我の妻になれ
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