処《いずこ》へ置くか。」
「旅の女よ、爾は爾の夫を何処へ置くか。」
 その時、急に高縁の踏板が、馳け寄る荒々しい響を立てて振動した。人々は入口の空間に眼を向けると、そこへ怒った反絵《はんえ》が馳《か》け込《こ》んで来た。
「兄よ、旅の女が逃げ失せた。石窖の口が開いていた。」
「王よ。我は夫の死体を欲する者に与えるであろう。」と卑弥呼はいった。そうして、使部の膝から訶和郎の死体を抱きとると、入口に立《た》ち塞《ふさが》った反絵の胸へ押しつけた。
 反絵は崩れた訶和郎の角髪《みずら》を除《の》けると片眼を出して彼女にいった。
「われは爾に代って奴隷を撃った。爾の夫を射殺した奴隷を撃った。」
「やめよ。夫の死体を欲した者は爾である。」と、卑弥呼はいった。
「旅の女よ、森へ行け、奴隷の胸には我の矢が刺さっている。」
 卑弥呼は反絵の片眼の方へ背を向けた。そうして、腰を縛《しば》った古い衣の紐《ひも》を取り、その脇に廻った結び目を解きほどくと、彼女の衣は、葉を取られた桃のような裸体を浮かべて、彼女の滑《なめら》かな肩から毛皮の上へ辷《すべ》り落《お》ちた。
 反耶の大きく開かれた二つの眼には、童男の捧げた衣の方へ、静かに動く円い彼女の腰の曲線が、霧を透《とお》した朝日の光りを区切ったために、七色の虹となって浮き立ちながら花壇の上で羽叩《はばた》く鶴の胸毛をだんだんにその横から現してゆくのが映っていた。そうして、反絵の動かぬ一つの眼には、彼女の乳房《ちぶさ》の高まりが、反耶の銅の剣《つるぎ》に戯れる鳩《はと》の頭のように微動するのが映っていた。卑弥呼は裸体を巻き変えた新しい衣の一端で、童男の捧げた指先を払いながら部屋の中を見廻した。
「王よ。この部屋をわれに与えよ。われは此処《ここ》に停《とど》まろう。」
 彼女は静に反耶の傍へ近寄った。そうして、背に廻ろうとする衣の二つの端を王に示しながら、彼の胸へ身を寄せかけて微笑を投げた。
「王よ、われは耶馬台の衣を好む。爾はわれのために爾の与えた衣を結べ。」
 反耶は卑弥呼を見詰めながら、その衣の端を手にとった。悦《よろこ》びに声を潜《ひそ》めた彼の顔は、髯《ひげ》の中で彼女の衣の射る絹の光を受けて薄紅に栄《は》えていた。部屋の中で訶和郎の死体が反絵の腕を辷《すべ》って倒れる音がした。反絵の指は垂下った両手の先で、頭を擡《もた》げる十疋
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