もしなかった。
「王は爾を待っている。」と、再び使部は彼女にいった。
 卑弥呼は訶和郎の胸から顔を上げて使部を見た。
「爾は王の前へ彼を伴なえ。」
「王は爾を伴えと我にいった。」
「王は彼を伴うを我に赦《ゆる》した。連れよ。」
 使部は訶和郎の死体を背に負って引き返した。卑弥呼は乱れた髪と衣に、乾草の屑《くず》をたからせて使部の後から石の坂道を登っていった。若者たちは左右に路を開いて彼女の顔を覗《のぞ》いていた。そうして、彼女の姿が彼らの前を通り抜けて、高い麻の葉波の中に消えようとしたとき、初めて彼らの曲った腰は静《しずか》に彼女の方へ動き出した。彼らの肩は狭い路の上で突《つ》き衝《あた》った。が、百合根を持った一人の若者は後の方で口を開いた。
「鹿の美女は森にいる。森へ行け。」
 若者たちは再び彼の方を振り向くと、石窖の前から彼に従って森の中へ馳け込んだ。

       十九

 卑弥呼《ひみこ》の足音が高縁《たかえん》の板をきしめて響いて来た。君長《ひとこのかみ》の反耶《はんや》は、竹の遣戸《やりど》を童男に開かせた。薄紅《うすくれない》に染った萩《はぎ》の花壇の上には、霧の中で数羽の鶴が舞っていた。そうして、朝日を背負った一つの峰は、花壇の上で絶えず紫色の煙を吐いていた。
 やがて、卑弥呼は使部の後から現れた。君長は立ち上って彼女にいった。
「旅の女よ。爾《なんじ》は爾の好む部屋へ行け。我は爾のためにその部屋を飾るであろう。」
「王よ。」使部は跪拝《ひざまず》いた膝の上へ訶和郎《かわろ》を乗せていった。「われは女の言葉に従って若い死体を伴のうた。」
「旅の女よ。爾の衣は鹿の血のために穢《けが》れている。爾は新らしき耶馬台《やまと》の衣を手に通せ。」
「王よ、若い死体は石窖《いしぐら》の前に倒れていた。」
「捨てよ、爾に命じたものは死体ではない。」
「王よ、若い死体はわれの夫《つま》の死体である。」と卑弥呼はいった。
 反耶の赤い唇は微動しながら喜びの皺《しわ》をその両端に深めていった。
「ああ、爾はわれのために爾の夫を死体となした。着よ、われの爾に与えたる衣はわれの心のように整うている。」
 王は隅《すみ》にひかえていた一人の童男を振り返った。童男は両手に桃色の絹を捧げたまま卑弥呼の前へ進んで来た。
「王よ。」と使部は訶和郎を抱き上げていった。「若い死体を何
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