た。そうして、再び彼女は倒れると、胸に剣《つるぎ》を刺された卑狗《ひこ》の姿が、乾草の匂いの中から浮んで来た。彼女はただ茫然《ぼうぜん》として輝く空にだんだんと溶け込む霧の世界を見詰めていた。すると、今まで彼女の胸に溢れていた悲しみは、突然|憤怒《ふんぬ》となって爆発した。それは地上の特権であった暴虐な男性の腕力に刃向う彼女の反逆であり怨恨であった。彼女の眼は次第に激しく波動する両肩の起伏につれて、益々冷たく空の一点に食い入った。ふとその時、草叢《くさむら》の葉波が描いた地平の上から立昇っている一条の煙が彼女の眼の一角に映り始めた。それは薄れゆく霧を突き破って真直ぐに立ち昇り、渦巻《うずま》きながら円を開いて拡げた翼《つばさ》のようにだんだんと空を領している煙であった。彼女は立ち上った。そうして、格子を掴《つか》むと高らかに煙に向って呼びかけた。
「ああ、大神はわれの手に触れた。われは大空に昇るであろう。地上の王よ。我れを見よ。我は爾《なんじ》らの上に日輪の如く輝くであろう。」
石窖《いしぐら》の格子の隙から現れた卑弥呼の微笑の中には、最早や、卑狗も訶和郎も消えていた。そうして、彼らに代ってその微笑の中に潜《ひそ》んだものは、ただ怨恨を含めた惨忍な征服慾の光りであった。
十八
耶馬台《やまと》の宮の若者たちは、眼を醒《さ》ますと噂《うわさ》に聴いた鹿の美女を見ようとして宮殿の花園へ押しよせて来た。彼らの或《ある》者は彼女に食わすがために、鹿の好む大バコや、百合根《ゆりね》を持っていた。しかし、彼らの誰もが鹿の美女を捜し出すことが出来なくなると、やがて庭園に積まれた鹿の死体が彼らの手によって崩し出された。その時、君長《ひとこのかみ》反耶《はんや》の命を受けた一人の使部《しぶ》は厳かな容姿を真直ぐに前方へ向けながら、彼らの傍を通り抜けて石窖《いしぐら》の方へ下っていった。若者たちの幾らかは直ちに彼の後から従った。使部は石窖の前まで来るとその閂《かんぬき》をとり脱《はず》し、欅《けやき》の格子《こうし》を上に開いて跪拝《ひざまず》いた。
「王は爾《なんじ》を待っている。」
間もなく若者たちは、暗い石窖の中から現れた卑弥呼《ひみこ》の姿を見ると、斉《ひと》しく足を停めて首を延ばした。彼女は入口に倒れている訶和郎《かわろ》を抱き上げるとそこから動こうと
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