》の花を踏みにじって奴国の方へ馳けていった。
「卑弥呼。」
「卑弥呼。」
九
遠く人馬の騒擾《そうじょう》が闇の中から聞えて来た。訶和郎《かわろ》と香取《かとり》は戸外に立って峠《とうげ》を見ると、松明《たいまつ》の輝きが、河に流れた月のように長くちらちらとゆらめいて宮の方へ流れて来た。それは不弥《うみ》の国から引き上げて来た奴国《なこく》の兵士《つわもの》たちの明りであった。訶和郎と香取は忍竹《しのぶ》を連ねた簀垣《すがき》の中に身を潜《ひそ》めて、彼らの近づくのを待っていた。
やがて、兵士たちのざわめきが次第に二人の方へ近寄って来ると、その先達《せんだち》の松明の後から、馬の上で一人の動かぬ美女を抱きかかえた長羅《ながら》の姿が眼についた。訶和郎は剣を抜いて飛び出ようとした。
「待て、兄よ。」と香取はいって、訶和郎の腕を後へ引いた。
先達の松明は簀垣の前へ来かかった。美女の片頬は、松明の光りを受けて病める鶴のように長羅の胸の上に垂れていた。
訶和郎は剣《つるぎ》を握ったまま長羅の顔から美女の顔へ眼を流した。すると、憤怒《ふんぬ》に燃えていた彼の顔は、次第に火を見る嬰児《えいじ》の顔のように弛《ゆる》んで来て口を解いた。そうして、彼の厚い二つの唇は、兵士たちの最後の者が、跛足《びっこ》を引いて朱実《あけみ》を食べながら、宮殿の方へ去って行っても開いていた。しかし、間もなく、兵士たちの松明が、宮殿の草野の上で円《まる》く火の小山を築きながら燃え上ると、訶和郎の唇は引きしまり、再び彼の両手は剣を持った。
「待て、兄よ。」
物に怯《おび》えたように、香取の体は軽く揺れた。しかし、訶和郎の姿は闇の中を夜蜘蛛《よぐも》のように宮殿の方へ馳け出した。
「ああ、兄よ。」と香取はいうと、彼女の悲歎の額《ひたい》は重く数本の忍竹へ傾きかかり、そうして、再び地の上へ崩れ伏した。
十
訶和郎《かわろ》は兵士《つわもの》たちの間を脱けると、宮殿の母屋《もや》の中へ這入《はい》っていった。そうして、広間の裏へ廻って尾花《おばな》で編んだ玉簾《たますだれ》の隙間《すきま》から中を覗《のぞ》いた。
広間の中では、君長《ひとこのかみ》は二人の宿禰《すくね》と、数人の童男と使部《しぶ》とを傍に従えて、前方の蒸被《むしぶすま》の方を眺めていた。数箇の
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