た鹿の角を長羅に向って投げつけた。
 長羅は剣の尖《さき》で鹿の角を跳ねのけると、卑弥呼を見詰めたまま、飛びかかる虎のように小腰《こごし》を蹲《かが》めて忍び寄った。
「去れ、去れ。」
 長羅に向って鏡が飛んだ。玉が飛んだ。しかし、彼は無言のまま卑弥呼の方へ近か寄った。大兄は卑弥呼を後《うしろ》に守って彼の前に立《た》ち塞《ふさ》がった。
「爾は何故にここへ来た。」
 と、大兄はいうと、彼の胸には長羅の剣が刺さっていた。彼は叫びを上げると、その剣を握って後へ反《そ》った。
「ああ、大兄。」
 卑弥呼は良人《おっと》を抱きかかえた。大兄の胸からは、血が赤い花のように噴《ふ》き出《だ》した。長羅は卑弥呼の肩に手をかけた。
「卑弥呼。」
「ああ、大兄。」
 卑狗の身体は卑弥呼の腕の中へ崩れかかって息が絶えた。
「我は爾を奪いに不弥へ来た。卑弥呼、我とともに爾は奴国《なこく》へ来《きた》れ。」
 長羅は卑弥呼を抱き寄せようとした。
「大兄、大兄。」と彼女はいいながら、卑狗の大兄を抱いたまま床の上へ泣き崩れた。
 そのとき、奴国の兵士《つわもの》たちは血に濡れた剣を下げて、長羅の方へ乱入して来ると口々に叫び合った。
「我は王を殺した。」
「我は王妃を刺した。」
「不弥の鏡を我は奪った。」
「我は宝剣と玉を掠《と》った。」
 長羅は卑弥呼を床の上から抱き上げた。
「我は爾を奪う。」
 彼は卑狗の大兄を卑弥呼の腕から踏み放すと、再び宮殿を突きぬけて広場の方へ馳け出した。卑弥呼は長羅の腕の中から、小枝を払った※[#「木+長」、第4水準2−14−94]《ほこだち》の枝に、上顎《うわあご》をかけられた父と母との死体が魚のように下っているのを眼にとめた。
「ああ、我を刺せ。」
 焔《ほのお》の家となった武器庫は、転っている死体の上へ轟然たる響を立てて崩れ落ちた。長羅は卑弥呼を抱きかかえたまま、ひらりと馬の上へ飛び乗った。
「去れ。」
 彼は馬の腹をひと蹴り蹴った。馬は石のように転っている人々の頭を蹴散して、森の方へ馳け出した。それに続いて、血に塗られた奴国の兵の鉾尖《ほこさき》が、最初の朝日の光りを受けてきらめきながら、森の方へ揺れて来た。
「卑弥呼。」と長羅はいった。
「ああ、我を刺せ。」
 彼女は馬の背の上で昏倒《こんとう》した。
「卑弥呼。」
 馬は走った。葎《むぐら》と薊《あざみ
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