87−87]形《けっけい》の刺青《ほりもの》を塗《ぬ》り潰《つぶ》された五人の使部《しぶ》が、偵察兵となって不弥《うみ》の国へ発せられた。そうして、森からは弓材になる檀《まゆみ》や槻《つき》や梓《あずさ》が切り出され、鹿矢《ししや》の骨片の矢の根は征矢《そや》の雁股《かりまた》になった矢鏃《やじり》ととり変えられた。猪の脂《あぶら》と松脂《まつやに》とを煮溜めた薬煉《くすね》は弓弦《ゆづる》を強めるために新らしく武器庫《ぶきぐら》の前で製せられた。兵士《つわもの》たちは、この常とは変って悠々閑々《ゆうゆうかんかん》とした戦いの準備を心竊《こころひそか》に嗤《わら》っていた。しかし、彼らの一人として、娘を憶《おも》う兵部《ひょうぶ》の宿禰《すくね》の計画を洞察し得た者は、誰もなかった。
 偵察兵の帰りを待つ長羅《ながら》の顔は、興奮と熱意のために、再び以前のように男々《おお》しく逞《たくま》しく輝き出した。彼は終日武器庫の前の広場で、馬を走らせながら剣《つるぎ》を振り、敵陣めがけて突入する有様を真似ていた。しかし、卑弥呼《ひみこ》を奪う日が、なお依然として判明せぬ焦燥さに耐え得ることが出来なくなると、彼は一人国境の方へ偵察兵を迎いに馬を走らせた。
 或《あ》る日、長羅は国境の方から帰って来ると、泉の傍に立っていた兵部の宿禰の子の訶和郎《かわろ》が彼の方へ進んで来た。彼は長羅の馬の拡った鼻孔を指差して彼にいった。
「王子よ、爾《なんじ》は爾の馬に水を飲ましめよ。爾の馬の呼吸は切れている。」
 長羅は彼に従って馬から降りた。そのとき、一人の乙女《おとめ》が垂れ下った柳の糸の中から、慄《ふる》える両腕に水甕《みずがめ》を持って現れた。それは兵部の宿禰の命を受けた訶和郎の妹の香取《かとり》であった。彼女は美しく装いを凝《こら》した淡竹色《うすたけいろ》の裳裾《もすそ》を曳《ひ》きながら、泉の傍へ近寄って水を汲んだ。彼女の肩から辷《すべ》り落《お》ちた一束の黒髪は、差し延べた白い片腕に絡《から》まりながら、太陽の光りを受けた明るい泉の水面へ拡った。長羅は馬の手綱《たづな》を握ったまま彼女の姿を眺めていた。彼女は汲み上げた水壺の水を長羅の馬の前へ静《しずか》に置くと、赧《あか》らめた顔を俯向《うつむ》けて、垂れ下った柳の糸を胸の上で結び始めた。
 やがて、馬は水甕の中から頭を上げ
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