咒禁師の剣を奪いとると、再び萩《はぎ》の咲き乱れた庭園の中へ馳け降りた。そうして、彼は蟇《がま》に戯《たわむ》れかかっている一疋の牝鹿《めじか》を見とめると、一撃のもとにその首を斬り落して咒禁師の方を振り向いた。
「来《きた》れ。」
 呆然《ぼうぜん》としていた咒禁師は、慄《ふる》えながら長羅の傍へ近寄って来た。
「我の望は西にある。いかが。」
「ああ、王子よ。」と、咒禁師はいうと、彼の慄える唇は紫の色に変って来た。
 長羅は血の滴《したた》る剣を彼の胸さきへ差し向けた。
「いえ、我の望は西にある。良きか。」
「良し。」
「良きか。」
「良し。」というと、咒禁師は仰向きに嫁菜《よめな》の上へ覆《くつがえ》った。
 長羅は剣をひっ下げたまま、蒸被《むしぶすま》を押し開けて、八尋殿《やつひろでん》の君長《ひとこのかみ》の前へ馳けていった。そこでは、君長は、二人の童男に鹿の毛皮を着せて、交尾の真似をさせていた。
「父よ、我に兵を与えよ。」
「長羅、爾《なんじ》の顔は瓜《うり》のように青ざめている。爾は猪と鶴とを食《くら》え。」
「父よ、我に兵を与えよ。」
「聞け、長羅、猪は爾は頬を脹らせるであろう。鶴は爾の顔を朱《あけ》に染めるであろう。爾の母は我に猪と鶴とを食わしめた。」
「父よ、我は不弥《うみ》を攻める。我に爾は兵を与えよ。」
「不弥は海の国、爾は塩を奪うか。」
「奪う。」
「不弥は玉の国、爾は玉を奪うか。」
「奪う。」
「不弥は美女の国、爾は美女を奪うて帰れ。」
「我は奪う、父よ、我は奪う。」
「行け。」
「ああ、父よ、我は爾に不弥の宝を持ち帰るであろう。」
 長羅は君長《ひとこのかみ》の前を下ると、兵部の宿禰を呼んで、直ちに兵を召集することを彼に命じた。しかし、兵部の宿禰は、この突然の出兵が、娘、香取の上に何事か悲しむべき結果を齎《もたら》すであろうことを洞察した。
「王子よ、爾は一戦にして勝たんことを欲するか。」
「我は欲す。」
「然《しか》らば、爾は我が言葉に従って時を待て。」
「爾は老者、時は壮者にとりては無用である。」
「やめよ。我の言葉は、爾の希望のごとく重いであろう。」
 長羅は唇を咬《か》み締《し》めて宿禰を見詰めていた。宿禰は吐息を吐いて長羅の前から立ち去った。

       六

 奴国《なこく》の宮からは、面部の※[#「王+夬」、第3水準1−
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