た。
「奴国の宮で、もっとも美しき者は爾である。」と長羅はいうと、馬の上へ飛び乗った。
香取の一層赧らんだ気高《けだか》い顔は柳の糸で隠された。馬は再び王宮の方へ馳《か》けて行った。
しかし、長羅は武器庫の前まで来たときに、三人の兵士が水壺の中へ毒空木《どくうつぎ》の汁を搾《しぼ》っているのを眼にとめた。
「爾の汁は?」と長羅は馬の上から彼らに訊《き》いた。
「矢鏃《やじり》に塗って、不弥《うみ》の者を我らは攻《せ》める。」と彼らの一人は彼に答えた。
長羅の眼には、その矢を受けて倒れている卑弥呼の姿が浮び上った。彼は鞭《むち》を振り上げて馬の上から飛び降りた。兵士たちは跪拝《ひざまず》いた。
「王子よ、赦《ゆる》せ、我らの毒は、直ちに一人を殺すであろう。」と一人はいった。
長羅は毒壺を足で蹴った。泡を立てた緑色の汁は、倒れた壺から草の中へ滲《し》み流《なが》れた。
「王子よ、赦せ、我らに命じた者は宿禰である。」と、一人はいった。
忽《たちま》ち毒汁の泡の上には、無数の山蟻《やまあり》の死骸が浮き上った。
七
不弥《うみ》の国から一人の偵察兵が奴国《なこく》の宮へ帰って来た。彼は、韓土《かんど》から新羅《しらぎ》の船が、宝鐸《ほうたく》と銅剣とを載せて不弥の宮へ来ることを報告した。長羅《ながら》は直ちに出兵の準備を兵部《ひょうぶ》の宿禰《すくね》に促した。しかし、宿禰の頭は重々しく横に振られた。
「爾は奴国の弓弦《ゆづる》の弱むを欲するか。」と、長羅はいって詰め寄った。
「待て、帰った偵察兵は一人である。」
長羅は沈黙した。そうして、彼は、嘆息する宿禰の頭の上で、不弥の方を仰いで嘆息した。
六日目に第二の偵察兵が帰って来た。彼は、不弥の君長《ひとこのかみ》が投馬《ずま》の国境へ狩猟に出ることを報告した。
長羅は再び兵部の宿禰に出兵を迫っていった。
「宿禰よ、機会は我らの上に来た。爾は最早や口を閉じよ。」
「待て。」
「爾は武器庫《ぶきぐら》の扉を開け。」
「待て、王子よ。」
「宿禰、爾の我に教うる戦法は?」
「王子よ、狩猟の日は危険である。」
「やめよ。」
「狩猟の日の警戒は数倍する。」
「やめよ。」
「王子よ、爾の必勝の日は他日にある。」
「爾は必勝を敵に与うることを欲するか。」
「敵に与うるものは剣《つるぎ》。」
「爾は我の敗北
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