馬爪《ばづ》で作った酒盞を長羅の方へ差し延べた。何ぜなら、彼の胸中に長く潜《ひそ》まっていた最大の希望は、今|漸《ようや》く君長の唇から流れ出たのであったから。
 しかし、長羅の頭首《こうべ》は重く黙って横に振られた。彼の眼の向けられた彼方では、松明の一塊が火串《ほぐし》の藤蔓《ふじかずら》を焼き切って、赤々と草の上へ崩れ落ちた。一疋の鹿は飛び上った。そうして、踊の中へ角を傾けて馳け込んだ。
「父よ、我は臥所《ふしど》を欲する。我を赦《ゆる》せ。」
 長羅は一人立ち上って櫓を降りた。彼は人波《ひとなみ》の後をぬけ、神庫の前を通って暗い櫟《いちい》の下まで来かかった。そのとき、踊りの群《むれ》から脱《ぬ》け出《だ》した一人の女が、彼の後から馳《か》けて来た。彼女は大夫の若い妻であった。
「待て、王子よ。」と彼女はいった。
 長羅は立ち停って後を向いた。
「我は爾の帰るを、月と星とに祈っていた。」
 長羅は黙って再び母屋《もや》の方へ歩いていった。
「待て、王子よ、我は夜の来る度に爾の夢を見た。」
 しかし、長羅の足はとまらなかった。
「ああ、王子よ。爾は我に言葉をかけよ。爾はわれを森へ伴なえ。我は我の祈りのために、再び爾を櫓の上で見た。」
 そのとき、二人の後から一人の足音が馳けて来た。それは女の良人の痩せ細った若い大夫であった。彼は蒼《あお》ざめた顔をして慄《ふる》えながら長羅にいった。
「王子よ、女は我の妻である。願くば妻を斬《き》れ。」
 長羅は黙って母屋の踏段に足をかけた。大夫の妻は長羅の腕を握ってひきとめた。
「王子よ、我を伴なえ、我は今宵《こよい》とともに死ぬるであろう。」
 大夫は妻の首を掴《つか》んで引き戻そうとした。
「爾は我を欺《あざむ》いた。爾は狂った。」
「放せ、我は爾の妻ではない。」
「ああ、妻よ、爾は我を欺いた。」
 大夫は妻の髪を掴んで引き伏せようとしたときに、再び新しい一人の足音が、蹌踉《よろ》めきながら三人の方へ馳けて来た。それは酒盞《うくは》を片手に持った長羅の父の君長であった。彼は踏《ふ》み辷《すべ》ると土を片頬に塗りつけて起き上った。
「女よ、我は爾を捜していた。爾の踊りは何者よりも美事であった。来《きた》れ、我は今宵爾に奴国の宮を与えよう。」
 君長は女の腕を握って踏段を昇っていった。大夫は女の後から馳け登ると、再び妻の手を持
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