出した。だが、群衆の頭は依然として動かなかつた。そのとき、彼らの中に全身の感覚を張り詰めさせて今迄の様子を眺めてゐた肥大な一人の紳士が混つてゐた。彼の腹は巨万の富と一世の自信とを抱蔵してゐるかのごとく素晴らしく大きく前に突き出てゐて、一条の金の鎖が腹の下から祭壇の幢幡のやうに光つてゐた。
彼はその不可思議な魅力を持つた腹を揺り動かしながら群衆の前へ出た。さうして彼は切符を卓子の上へ差し出しながらにやにや無気味な薄笑ひを洩して云つた。
「これや、こつちの方が人気があるわい。」
すると、今迄静つてゐた群衆の頭は、俄に卓子をめがけて旋風のやうに揺らぎ出した。卓子が傾いた。「押すな! 押すな!」無数の腕が曲つた林のやうに。尽くの頭は太つた腹に巻き込まれて盛り上つた。
軈て、迂廻線へ戻る列車の到着したのはそれから間もなくのことであつた。群衆はその新しい列車の中へ殺到した。満載された人の頭が太つた腹を包んで発車した。跡には、踏み蹂じられた果実の皮が。風は野の中から寒駅の柱をそよそよとかすめてゐた。
すると、空虚になつて停つてゐる急行列車の窓からひよつこりと鉢巻頭が現れた。それは一人取り残さ
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