発会式の情景をふと思い浮べると、微笑が唇《くちびる》にのぼって来るのを感じた。犬を鎮《しず》めるには犬より大きな声を出さねば逃げるものではない。この紳士淑女たちの間で、誰があの犬より大声をはり上げるであろうか。梶は興味をもって犬を見上げながら、現実をお茶にしたツァラアのかつての行動はこの犬に似ていると思った。しかし、今は彼は一流のフランスの現実上の名士である。もし彼が何らかの意味で、現実という愚劣|極《きわ》まればこそ最も重要な沃土《よくど》の意義をこの世に感じているものなら、今突如として湧《わ》き上ったこの胸を刺す諷刺《ふうし》の前で必ず苦杯を舐《な》めているにちがいない。――
 こう梶の思っているとき「しッ、しッ」と小さな声でツァラアは犬を追った。けれども、勿論彼の云いわけのような声では犬は鎮るものではなかった。もう一座は犬のますます高まる声で均衡がなくなり、焦燥した筋肉が顔面に現れて来て、このままではこの夜の集りはただ一同不満足のまま散って帰るより仕方がなくなった。すると、突然、梶の友人は円塔の上を仰いで、
「馬鹿ッ馬鹿ッ馬鹿ッ」
 と続けさまに大声で怒鳴った。その声はたしかに犬
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