》す前に先ず槍を握って相手の顔を見たくなった。スペインの争乱が日日銃火を切って殺し合う図を思い描いても、思想の戯れの恐怖より銭欲しさの生活の頑固《がんこ》さが盗賊のように浮んで来るのであった。
「全く右へ行くも左へ行くもあったもんじゃないですね。これゃ食える方へ行ってるだけだ」
梶はフランスの罷業《ひぎょう》を目撃してからドイツ、オーストリア、イタリアを廻ってパリーへ帰ると友人に話したことがあった。
「そうですよ。みなそうですよ」
とヨーロッパの政治に明るい特派員の友人が彼に答えた。この人と梶が別れて東北の隅で新聞を見ていると、一カ月もたたぬのに、すでにこの紳士であるスマートな友人はスペインの動乱の上を飛行機で飛び廻り、空中からの彼の活躍のさまが手にとるように紙面に現れていた。
「日本の新聞記者ほど働く記者は世界のどこにもいませんよ。あまり働くので、われわれをペスト菌だと云ったポーランド人がおりますよ」と彼が苦笑をもらしたことがある。
又ある大学の優秀な政治学の教授は、パリーの左翼の旺盛《おうせい》なさまを眼にしながら、
「自分は左翼に同情はしていたが、しかし、日本がこんなになられちゃ、これゃたまらないという気がして来ましたね。けれども、そうかと云って、生徒に君たちはファッショになれとは、どうしても云えませんからね。全く帰ったって、これじゃ生徒に教えようがなくなった。困ったことになって来た」
とつくづく梶に腕組みしながらこぼしたことがあった。しかし、思想は民族から離れてあり得ようがない。論理の国際性の重要なことは梶とて充分知っているが、それ故《ゆえ》に知性は国際的なものだとは限っていない。民族の心理を飛び放れた科学者たちの知性が、国際性を何ものより最上としている現代の欠陥は、各民族の住する自然を同一視している彼らの理想の薄弱なところにあるのだと梶は思った。事実、自然の法則を発見する科学者たちの方法が各国共通の論理を根幹としている理由によって、その論理の対象とする自然と歴史の運動をも各国共通の自然と混同しているところに、現代という時間を忘れた知性の不明があると梶は思う癖があった。
梶がヨーロッパへ旅立つ前からうっかり民族という言葉を用いようものなら、ひどく知識階級のある種のものたちから矢を受けた。けれども、この明瞭《めいりょう》な現実の根柢《こんてい》であるところの種族を黙殺して、何の知性が種族の知性となるのであろうか。梶はこう思う。
「自分がこのように棲息《せいそく》している種族の知性を論理の国際性より重んじるところは、自分が種族の国際性を愛するからだ」と。
全く今まで梶の一番混乱を起した抽象的な場所はここであった。またこれは梶一個人の混乱の場所だけではなく、日本の知識階級全部の混乱の源をなしている奇奇怪怪の場所でもあった。一度《ひとた》び問題がここに触れようものなら知識階級は総立ちになって喧騒《けんそう》を極《きわ》めるのだ。今やまた梶が帰ってみればヒューマニズムの論議が沸き立ち上っている最中であったが、これも仔細《しさい》に眺めていると、種族の知性と論理の国際性との分別し難い暗黒面から立ち昇っている濛濛《もうもう》とした煙であった。
すべての知識階級の者たちは、頭の中にそれぞれこの暗い穴を開けられたまま歩いていた。歩く彼らの足つきや方角を見ていると、誰も彼も勝手の悪そうな顔をして煙っている他人の火元を見合いながら慰め合うのである。中には無闇矢鱈《むやみやたら》と国際性という刀を振り廻して斬《き》りつけてばかりいるのもあった。このような人人は覆面をして荒れ廻っている者に多かったが、面の中からも煙はぶすぶす立ち昇っているので、背中の後ろの捻《ね》じ廻しがどこ製のものだかすぐ人人には分るのであった。
東北の海岸の温泉場には人の気配はもうなかった。梶は波頭の長く連り襲って来る海を前にした宿の部屋で、背後の水の滴《したた》る岩山の方に向いて坐り、終日そこから動かなかった。驟雨《しゅうう》がときどき岩庭に降り込んだ。彼は泉石の間から端正な真鯉《まごい》の躍《おど》り上るのを眼にしながら何をするでもなかった。このようなとき、四つの子供が村の子供たちに引っ掻《か》かれて泣きながら彼の部屋へ這入《はい》って来て、黙っている父を見ると棒切れを拾い上げ、
「よし、殴《なぐ》って来てやろ」
と云ってまた馳け出すのを見ると、梶はこ奴《いつ》は日本人だと思ってひそかに喜んだ。梶の留守の間初めて村|住居《ずまい》をすることになったこの子供が、ある日村の大きな学校通いの子供たちから取り包まれ、皆から石を持って迫られても逃げないでじっとしていた話を芳江から聞かされると、梶はまたそれも喜んだ。彼はこのような子供が今日本に充満していて、年
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