度前から芳江と視線が合うものの、その度に気まり悪げに俯向《うつむ》く芳江と同じように、梶もそそくさと他所眼《よそめ》をしながら、芳江の顔を正視しかねているのであった。いつもは家にいると怒鳴りつけるように大声で妻に用事を命じる梶の癖も、このときは何となく恰好《かっこう》がつかずに庭の松の大木ばかりに眼が奪われるのを、どうも不思議な松だとじっと梶は眺めていた。
「世界を廻って来たお蔭で悟りがなくなってしまったぞ」
 梶はにやにやしながら妻の持って来た水のことなど忘れているとき、馳《か》け込んで来た四つになる子供が父の梶を見てびっくりしたらしく笑顔もせず急に立ち停った。
「おい、来なさい」
 こう梶は云うと、子供は黙ったまま、冠《かぶ》っていた帽子をずるずる鼻の下へ引き摺《ず》り降ろして顔から取りのけようとしなかった。
「パパお帰りなさいっておっしゃいよ。羞しいの」
 芳江に云われても子供は顔を隠しつづけている帽子の縁を噛《か》みながら、矢張り立ちはだかったまま黙っていた。
 梶は水を飲みつつ再びこれから前の定着した日常生活が始ろうとしているのだと思った。しかし、しばらく日本の時間を脱していた梶の感覚は自分の家族の生活がこの東洋の一角にあったのだと知って、不思議な物を見るように妻や子供を手探り戻そうとし始めた。それにしても、何と自分は大きな物を見て来たものだろう。あれが世界というものかと、梶は自分の子供の顔を眺めて初めて世界の実物の大きさにつくづく驚きを感じるのであった。虚無といい、思想というも、みな見て来たあの世界より他にはないのだと思うと、夢うつつのごとくあれこれと思い描いていた今までの世の中が、一瞬にしてかき消えたように思われた。
「いったい、どこを自分はうろうろしているのだろう。この自分の坐っている所は、これゃ何という所だろう」
 梶は浦島太郎のように妻子の前であるにも拘《かかわ》らず、ときどき左右をきょろきょろ見廻した。全く自分の見て来たものも知らずにまだ前と同じ良人《おっと》だと自分を思っている妻の芳江が、このとき何となく梶には憐《あわ》れに見えてならなかった。
「お前はいったい何者だ」
 妻や子供を見ながらこう云う気持ちが起っては、以後の生活の不安も意想外なところに根を張っているものだと、梶は身の周囲を取り包んでいる漠《ばく》とした得体の知れない不伝導体をごしごし擦《こす》り落しにかかったが、ふと前に一足触った芳江の皮膚の柔かな感触だけが、嘘《うそ》のようなうつつの世界から強くさし閃《ひらめ》いているのを感じると、触覚ばかりを頼りに生きている生物の真実さが、何より有難いこの世の実物の手ごたえだと思われて、今さら子供の生れて来た秘密の奥も覗《のぞ》かれた気楽さに立ち戻り、またごろりと手枕のまま横になった。
 世界のどこかに自分の子供があるということは、全く捨て置き難い。この地を愛せずしてなるものか。――南無《なむ》、天地、仏神、健《すこや》かにましまし給え。敵や悪魔を払い給えと、梶は胡桃《くるみ》の葉かげからきらめく日光に眼を射られながら、空の青さ広さに大の字となり、畳の上の喜ばしさに再びきょろきょろと飽かず周囲を見廻した。

 今まで度度東北地方へ来たにも拘らず、梶はこの度ほどこの地方の美しさを感じたことはなかった。親子兄妹が同じ町内に住んでいながら、顔を合せば畳の上へ額を擦《す》りつけて礼をするのも、奇怪以上に美しく梶は見惚《みと》れるのであった。稲穂の実り豊かに垂れている田の彼方《かなた》に濃藍色《のうらんしょく》に聳《そび》える山山の線も、異国の風景を眼にして来た梶には殊の他《ほか》奥ゆかしく、遠いむかしに聞いた南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》の声さえどこからか流れて来るように思われた。
 梶はこの風景に包まれて生れ、この稲穂に養われて死ぬものなら、せめてそれを幸福と思いたかったのが、今にしてようやくそれと悟った楽しさを得られたのも、遅まきながら異国の賜物だと喜んだ。全くこの独特な小さい稲穂の中で、押し合いへし合い捻《ね》じ合いつつ、無我夢中に成長して来たわれらの祖先の演劇は、何ものの中にも血となり肉となりしてこり塊《かたま》っていることこそ争い難い事実であった。
 笑わば笑え。真正真銘の悲劇喜劇もこれに増した痛烈な事件はあるまい。――こう梶の思う心の中で、ヨーロッパの知性に飛びついている顔が、足をぶらぶらさせていったい何を笑っているのか判然としなかった。
 世の中はぜんたいどこへ行くのであろう。――深夜眠れぬままにときどきこのように思ったパリーでの瞑想《めいそう》も、も早や梶から形をとり壊《こわ》して安らかに鎮《しずま》って来るのであった。このようなときには、梶に突き刺さって来た敵の槍《やり》さきも、蹴脱《けはず
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