の声よりも大きかった。犬はまだ二声三声吠えつづけたが家人が日本語の怒声を聞きつけると、初めてテラスへ出て来て犬を屋内へ引き摺《ず》り入れた。再び梶の周囲のテラスでは談話が高級な問題をめぐってそちこちで始まったが、しかし、梶にはそれらの話よりも犬に向って発した友人の日本語の怒声の方が遙《はる》かに興味深く尾を曳《ひ》いて感じられるのであった。
 犬の声が全く聞えなくなってからしばらくしてツァラア夫人が客たちの中へ現れた。絹の飛白《かすり》のような服に紅いバンドを締めた夫人は、葡萄酒《ぶどうしゅ》を一同に注《つ》ぎながら梶の傍《そば》まで来ると優しく梶に握手をして彼の横へ腰を降ろした。イヴァアル・クロイゲルの令嬢であるこのツァラア夫人は、集った婦人たちの中では最も優雅な人であったばかりではない、梶がそれまで見た多くのパリーの婦人たちの中でも第一流の美しい婦人であったが、その静な表情や品位のある眼もとは、あまり出歩かない日本の貴族のように血統の美しさを湛《たた》えていた。まことに幽艶《ゆうえん》な婦人である。
「どうぞ、これめし上れ」
 夫人は梶にときどき葡萄酒をすすめて自分も飲んだ。広間からさして来る光りが夫人の横顔を鮮明に浮き上らせているものの、一同の話が罷業の臆測を赦《ゆる》さぬ流れに不安の空気を流しているときとて、話につれて淑《しと》やかな彼女の顔もどことなく沈んでいった。
「フランス政府は労働者に力を与えて罷業をすすめたものの、こんなに罷業がつづけば資本家は倒れてしまう。これを潰《つぶ》せば労働者も潰れてしまう。しかし、罷業はしなければならぬというので、政府は四苦八苦の状態になって来ている」と一人の客が云った。
「しかし、政府は潰れた資本家に裏から資金を与えて起き上らせているともいうよ」とまた他の客が云う。
「そこへまた罷業を起すというわけか」
 どっと笑う声の上った後《あと》からすぐまた不安な低声がつづいていく。集っている十人のものたちはそれぞれ誰もが左翼らしい雰囲気《ふんいき》であるが、自分の身分が利子生活者のこととて罷業進行の結果は金利が引き下がり、日々直接身に響いていくばかりではない。物価の昂騰《こうとう》につれて右翼の非常手段がいつ爆発するか分らぬ恐れがあった。つまり、梶の眼に映った一同の不安は思想と現実とののっぴきならぬ苦悶《くもん》である。然《しか
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