人物は流れの底を知っている。この受身の形は対象に統一を与える判断力を養っている準備期であるから、力が満ちれば端倪《たんげい》すべからざる黒雲を捲《ま》き起す。猫を冠《かぶ》っているという云い方があるが、この猫は静な礼儀の下で対象の計算を行いつづけている地下の活動なのであろう。まことに受身こそ積極性を持つ平和な戦闘にちがいない。
 梶はツァラアに紹介されてから集った紳士淑女たちの円形に並んだ椅子の中に身を沈めた。会話はすべて巴里に進行している大罷業《だいひぎょう》の話ばかりだ。そのとき、左の方の円筒形をしている高い隣家のテラスから下の一団に向って犬がけたたましく吠《ほ》え立てた。ツァラアを囲んだ芸術家たちも、初めの間は思想上の会話をつづけていたが、だんだん高まる犬の声にも早や会話が聞きとり難くなって来た。犬を追い立てようにも間には断層のように落ち込んだ他家の庭がひかえている。一同はしばらく小さな声で口を鳴らせていた。しかし、相手は犬である。狂気のように吠え立て始めては利《き》くものではない。一同は苦笑をもらしてただ円塔の上を見上げているだけだ。
 梶はこのときスイスに於けるツァラア一派の発会式の情景をふと思い浮べると、微笑が唇《くちびる》にのぼって来るのを感じた。犬を鎮《しず》めるには犬より大きな声を出さねば逃げるものではない。この紳士淑女たちの間で、誰があの犬より大声をはり上げるであろうか。梶は興味をもって犬を見上げながら、現実をお茶にしたツァラアのかつての行動はこの犬に似ていると思った。しかし、今は彼は一流のフランスの現実上の名士である。もし彼が何らかの意味で、現実という愚劣|極《きわ》まればこそ最も重要な沃土《よくど》の意義をこの世に感じているものなら、今突如として湧《わ》き上ったこの胸を刺す諷刺《ふうし》の前で必ず苦杯を舐《な》めているにちがいない。――
 こう梶の思っているとき「しッ、しッ」と小さな声でツァラアは犬を追った。けれども、勿論彼の云いわけのような声では犬は鎮るものではなかった。もう一座は犬のますます高まる声で均衡がなくなり、焦燥した筋肉が顔面に現れて来て、このままではこの夜の集りはただ一同不満足のまま散って帰るより仕方がなくなった。すると、突然、梶の友人は円塔の上を仰いで、
「馬鹿ッ馬鹿ッ馬鹿ッ」
 と続けさまに大声で怒鳴った。その声はたしかに犬
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