に向つて押しよせて來る波紋。かの白い一疋の蝶は、まだいつまでも山と云はず森と云はず雲と云はず、ひらひら不安な姿で縱横無盡に活溌に暴れつづけてゐる。ふと見ると、高い梢の白い花が日光を受けて明るく輝いたと思ふ間に、忽ち日に影つてまたさびれる。厨の方から料理する庖丁の音が水音に混つて聞えて來る。
花魁草の花の中に蹲みながら、暮れかかつていく湖を眺めてゐる私の傍に、女は廊下を降りて來て立つた。しかし、私にはもう女の姿も大きな山脈も、眼の前に垂れ下つた淡紅色の花瓣に流れた微細な水脈も、大小の比較がかき消えて、かすかに呼吸してゐる自分の胸もとの襟のゆるやかに動くのが眼につくだけだ。白く細つそりした雄蕋や、入り組んだ雌蕋の集合した花花のその向ふでは、今や日没の光線に金色に輝いた湖面が靜まり返つて傾き始めた。キャムプの草の上で焚火をしてゐる若者の歌ふ青春の唄が、透明な空氣を搖り動かして流れて來る。花の中に首をさし入れてゐる私の顏の周圍は、ほの明るく火を入れたやうに色めき立ち、草笛の音のやうにうす甘く眠つてゐる官能を激しく呼び醒して少年の日をめくる。折から撥ね上る水面の魚。齒をむいて驅け昇つて來る童兒。やがて、最後の光線とともに萬目すべてぴたりと音を消した。動くものは何物もなく、眼界一人の人物とてゐない。ただ手折つて來た花が縁側の上に凋れて影を映してゐるばかり。
夕食に出た茄子の燒きがどこかで見覺えのある燒き方だと思つて覗いてゐると、それは晝食に出されたこの宿の茄子であつた。押しよせて來てゐた群青のために、私は早や過去をそんなに激しく忘れてゐたのであらうか。沈默と靜けさの中で動いてゐた精神はこれすべて、色彩の祕密の底を潛つてゐたのであらうか。――ふと氣附くと、朝から鳴きつづけて來た一疋の小蟲がまだ鳴きつづけてやまない。巨大な滿月が秋草の中から昇つて來た。沈んだ湖面は再び月に向つて輝きながら傾いた。私は膝を崩して杯を上げた。女は酒を注いだ。夜になつて峠を越えて來た旅人が隣室へ這入つて來た。私は女に、この山の頂で希望を捨てる旅人の數を尋ねてみた。すると、女は、彼女が來てからこの二ヶ月の間に三つの自殺者のあつた話をし始めた。
わたくしの來た三日目に、書生さんが一人來て、アダリンを飮んで二階で死にましたが、それから二週間目に、また一人書生さんがいらつしやいまして、あの左の山の中で
前へ
次へ
全10ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング