とするならば、われわれの文学に対する共通の問題は、一体、いかなる所にあるのであろうか。それは、文学が絶対に文字を使用しなければならぬと云う、此の犯すべからざる宿命によって、「文字の表現」の一語で良い。これは、いかなるものと雖も認めるであろう。
しかしながら、その次に何物よりも、われわれの最もより多く共通した問題となるべきことがあるべき筈だ。それは、われわれ人間が世界を見る場合、唯心論的に見るべきか、唯物論的に見るべきかと云う二つの見方にちがいない。此処でわれわれの完全に共通した問題は分裂する。
われわれは前に、その正邪に拘《かかわ》らず、資本主義を認め、社会主義を認めた。この相対立する二つの社会機構を認めたと云うことは、われわれが歴史を認めたと云うことに他ならない。しかしながら、われわれの今迄の文学に現れた歴史の認め方は、唯心論的な見方であったにすぎなかった。
もしわれわれが、歴史を認めたならば、資本主義を認めた如く、社会主義をも認めなければならぬ。もしわれわれがそうして社会主義を認めたならば、社会主義をかくも歴史の新しい事実として勢力付けた唯物論をも、認めなければならぬであろう。
しかしながら、われわれは、資本主義を認め、社会主義を認めたごとく、左様に唯心論を認め、唯物論を認めることは出来ないのだ。何故なら、われわれは最早やここに至ると、文学を論じているのではなくして、自個《じこ》の世界の眺め方を論じているのだからである。われわれは個である以上、此の二つの唯心、唯物のいずれか一つをその認識力に従って、撰《えら》ばねばならぬ運命を持っている。
そこでわれわれは、唯心論を撰ぶべきか、唯物論を撰ぶべきかと云うことによって、われわれの世界の見方も変って来る。
もしわれわれが、唯心唯物のいずれかを撰ぶことによって、世界の見方が変るとすれば、われわれの文学的活動に於ける、此の二つの変った見方のいずれが、より新しき文学作品を作るであろうか。
それは少くとも唯物論もしくは唯物論的立場である。何ぜなら、唯心論及び唯心論的文学は、最早や完全に現れて了《しま》ったからである。
もしわれわれが、此の新しき唯物論的文学を、より新しき文学として認めるとすれば、われわれは当然、コンミニズム文学をも認めねばならぬ。何故なら、コンミニズム文学は、此の唯物論を基礎とし
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