た文学であるからだ。

 しかしながら、コンミニズム文学のみが、ひとり唯物論的文学では決してない。それなら、他にいかなる唯物論的文学が存在するか。それは、新感覚派文学、これ以外には、一つもなかった。

 もし新しき文学が、コンミニズム文学と新感覚派文学の二つであるとするならば、そのいずれが、果して文学の圏内に於て、より新しくして広闊《こうかつ》なる文学となるべきであろうか。

 われわれは考えねばならぬ。もしもコンミニズム文学が、曾《かつ》て用いた弁証法的考察を赦《ゆる》すならば、新感覚派文学はコンミニズム文学よりも、より以上に明確な弁証法的発展段階の上に、位置していると云うことをも認めなければならないであろう。何故なら、コンミニズム文学は、文学としての発展段階を無視したる文学形式であるからだ。彼らはその理想さえ主張出来得れば、曾て犯した唯心論的文学の古き様式をさえも、唯々諾々《いいだくだく》として受け入れているではないか。そこで、彼らは、文学の圏内に於ては、ただ単なる理想主義文学と何ら変る所はない。

 それで果して文学的活動は正当さを主張し得るのであろうか。もしそれで正当となすものがあるならば、コンミニズム文学は、文学の圏内に於ては、最早やいかなる発展能力をも持ち得ないと云わなければならぬ。

 われわれの文学は、文学形式として、発展能力を持たない限り、一大文学とはなり得ない。われわれは今は文学を問題としているのだ。社会を問題としているのではない。

 われわれが社会を問題とせずして、文学を問題としているとき、最早やわれわれには、コンミニズム文学は、問題から抛擲《ほうてき》されるべき問題たる素質を持って来たのである。そうして、われわれの文学の新しき問題たるべきことこそは、彼らに代って起るべき充分に文学を問題とした社会主義文学でなければならぬ。かかる社会主義的な文学は、当然、正統な弁証法的発展段階のもとに成長して来た、新感覚派文学の中から起るべき運命を持っている。

 しかしながら、次に起るべき新しき文学は、新感覚派の中から発生した社会主義文学のみではない。何故なら、われわれの社会機構は、いまだ資本主義の一大勢力のもとにあるからだ。いかにわれわれが、拒否しようとも、資本主義の存在していることは事実である。此の資本主義の存在している限り、それは仮令《たとえ》、排撃せ
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