対して最も認識深き者と雖も、コンミニストたらざる場合があるとすれば、この「場合」こそ、われわれ共通の問題となるべき素質を持った存在にちがいない。此の存在とは何であろうか。

 われわれは、いかなる者と雖も、資本主義の機構の上にある以上、資本主義を、その正邪にかかわらず、認めなければならぬ。またわれわれは、いかなるものと雖も、マルキシズムを、その正邪にかかわらず、存在する以上は認めなければならぬ。何故なら、此の二つの対立は、歴史の重大な歴史的事実であるからだ。

 しかしながら、此の二つの敵対した客体の運動に対して、いずれに組するべきかその意志さえも動かす必要なくして、存在理由を主張し得られる素質を持つものが、此の社会に二つある。一つは科学で、一つは文学だ。

 もしもコンミニストが、此の文学の、恰《あたか》も科学の持つがごとき冷然たる素質を排撃するとしたならば、彼らの総帥《そうすい》の曾《かつ》て活用したる唯物論と雖も、その活用させたる科学的態度を、その活用なし得た科学的部分に於て排撃されねばならぬであろう。

 総ての文学がコンミニズムになりたる場合を考えよ。最早やそのときに於ては、文学はその科学のごとき有力なる特質を紛失する。しかしながら、もしもコンミニストが、文学を認めたとしたならば、文学の有《も》つ此の科学のごとき冷静な特質をも認めねばならぬであろう。

 もしもコンミニストが、此の文学の持つ科学のごとき特質を認めねばならぬとしたならば、彼らにして左様に認めねばならぬ理由のもとに於てさえ、なお且《か》つ文学は生き生きと存在理由を発揮する。

 文学がしかく科学のごとき素質を持ち、かくのごとく生き生きと存在理由を持つ以上、われわれは再び現下に於ける文学について、考えねばならぬ。しかも、それは、文学に於けるいかなる分野が、素質が、属性が、総《あら》ゆる文学の方向から共通に考察されねばならないか。これがわれわれの新しい問題となるべきであろう。

「われわれには、そんな暇はない。」と云うものは云うであろう。しかし、文学はそんなものからさえも、彼らもまたかかる科学的な一個の物体として、文学的素材となり得ると見る。此の恐るべき文学の包括力が、マルクスをさえも一個の単なる素材となすのみならず、宇宙の廻転《かいてん》さえも、及び他の一切の摂理にまで交渉し得る能力を持っている
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