、あなたは、他《ほか》のことを考えて」
「まア、静まれ、いま呶鳴《どな》っちゃ」
「あなたが、落ちついているから、憎らしいのよ」
「俺が、今|狼狽《あわ》てては」
「やかましい」
彼女は彼の持っている紙をひったくると、自分の啖を横なぐりに拭《ふ》きとって彼に投げつけた。
彼は片手で彼女の全身から流れ出す汗を所を択《えら》ばず拭きながら、片手で彼女の口から咳出す啖を絶えず拭きとっていなければならなかった。彼の蹲《しゃが》んだ腰はしびれて来た。彼女は苦しまぎれに、天井を睨《にら》んだまま、両手を振って彼の胸を叩き出した。汗を拭きとる彼のタオルが、彼女の寝巻にひっかかった。すると、彼女は、蒲団《ふとん》を蹴《け》りつけ、身体をばたばた波打たせて起き上ろうとした。
「駄目だ、駄目だ、動いちゃ」
「苦しい、苦しい」
「落ちつけ」
「苦しい」
「やられるぞ」
「うるさい」
彼は楯《たて》のように打たれながら、彼女のざらざらした胸を撫《な》で擦《さす》った。
しかし、彼はこの苦痛な頂天に於てさえ、妻の健康な時に彼女から与えられた自分の嫉妬《しっと》の苦しみよりも、寧《むし》ろ数段の柔かさがあ
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