え。願くばわが号呼《さけび》の声の御前にいたらんことを。わが窮苦《なやみ》の日、み顔を蔽《おお》いたもうなかれ。なんじの耳をわれに傾け、我が呼ぶ日にすみやかに我にこたえたまえ。わがもろもろの日は煙のごとく消え、わが骨は焚木《たきぎ》のごとく焚《やか》るるなり。わが心は草のごとく撃《うた》れてしおれたり。われ糧《かて》をくらうを忘れしによる」
 しかし、不吉なことはまた続いた。或る日、暴風の夜が開けた翌日、庭の池の中からあの鈍い亀が逃げて了っていた。
 彼は妻の病勢がすすむにつれて、彼女の寝台の傍からますます離れることが出来なくなった。彼女の口から、痰《たん》が一分毎に出始めた。彼女は自分でそれをとることが出来ない以上、彼がとってやるよりとるものがなかった。また彼女は激しい腹痛を訴え出した。咳《せき》の大きな発作が、昼夜を分《わか》たず五回ほど突発した。その度に、彼女は自分の胸を引っ掻《か》き廻して苦しんだ。彼は病人とは反対に落ちつかなければならないと考えた。しかし、彼女は、彼が冷静になればなるほど、その苦悶の最中に咳を続けながら彼を罵《ののし》った。
「人の苦しんでいるときに、あなたは
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