たい?」
 彼はこの意想外の妻の慾望に笑い出した。
「お前はおかしな奴だね。俺《おれ》に長い間苦労をかけておいて、洗濯がしたいとは変った奴だ」
「でも、あんなに丈夫な時が羨《うらや》ましいの。あなたは不幸な方だわね」
「うむ」と彼は云った。
 彼は妻を貰《もら》うまでの四五年に渡る彼女の家庭との長い争闘を考えた。それから妻と結婚してから、母と妻との間に挾《はさ》まれた二年間の苦痛な時間を考えた。彼は母が死に、妻と二人になると、急に妻が胸の病気で寝て了《しま》ったこの一年間の艱難《かんなん》を思い出した。
「なるほど、俺ももう洗濯がしたくなった」
「あたし、いま死んだってもういいわ。だけども、あたし、あなたにもっと恩を返してから死にたいの。この頃あたし、そればかり苦になって」
「俺に恩を返すって、どんなことをするんだね」
「そりゃ、あたし、あなたを大切にして、……」
「それから」
「もっといろいろすることがあるわ」
 ――しかし、もうこの女は助からない、と彼は思った。
「俺はそう云うことは、どうだっていいんだ。ただ俺は、そうだね。俺は、ただ、ドイツのミュンヘンあたりへいっぺん行って、それ
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