せた[#「ませた」に傍点]姉である。
「そうだ、それも好いな。」
 と父親は言った。
 母親だけはいつまでも黙っていた。
 吉は流しの暗い棚の上に光っている硝子《ガラス》の酒瓶《さかびん》が眼につくと、庭へ降りていった。そして瓶の口へ自分の口をつけて、仰向《あおむ》いて立っていると、間もなくひと流れの酒の滴《しずく》が舌の上で拡《ひろ》がった。吉は口を鳴らしてもう一度同じことをやってみた。今度は駄目だった。で、瓶の口へ鼻をつけた。
「またッ。」と母親は吉を睨《にら》んだ。
 吉は「へへへ。」と笑って袖口《そでぐち》で鼻と口とを撫《な》でた。
「吉を酒《さか》やの小僧にやると好いわ。」
 姉がそういうと、父と兄は大きな声で笑った。
 その夜である。吉は真暗な涯《はてし》のない野の中で、口が耳まで裂けた大きな顔に笑われた。その顔は何処《どこ》か正月に見た獅子舞《ししま》いの獅子の顔に似ているところもあったが、吉を見て笑う時の頬《ほお》の肉や殊に鼻のふくらはぎ[#「ふくらはぎ」に傍点]までが、人間《ひと》のようにびくびくと動いていた。吉は必死に逃げようとするのに足がどちらへでも折れ曲がって、
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