ろうと云われても、何とも返答に困る方が、真実のことである。
それなら、いったい純粋小説とはいかなるものかということになるのだが、この難しい問題の前には、通俗小説と純文学の相違を、出来る限り明瞭《めいりょう》にしなければならぬ関所がある。人々は、この最初の関所で間誤間誤《まごまご》してしまって、ここ以上には通ろうとしないのが、現状であるが、それでは一層ややこしくなる純粋小説の説明など、手のつけようがなくなって、誰もそのまま捨ててしまい、今は手放しの形であるのは尤《もっと》もといわねばならぬ。しかし、考えてみれば、純文学の衰弱は、何と云っても純粋小説の現れないということにあるのであるから、文壇全体の眼が、純粋小説に向って開かれたら、恐らく急流のごとき勢いで純文学が発展し、真の文芸復興もそのとき初めて、完成されるにちがいないと、このように思った私は、危険とは知りつつ、その手段として、純文学にして通俗小説の意見を数行書いてみたのである。
いったい純文学と通俗小説との相違については、今までさまざまな人が考えたが、結局のところ、意見は二つである。純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学と
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