学に何の影響も与えずに、素通りして来たのは、どうした理由であろうかと、もう一度考え直してみなければ、純文学は衰滅するより最早やいかんともなし難いとこのように思った私は、この正月の五日の読売新聞へ、純文学にして通俗小説の一文を書いた。私の文章は、以上の人々の尻馬《しりうま》に乗ったまでで、何ら独創的な見解があったわけではない。しかし、今は、達識の文学者の中では、私の云ったような言葉は定説とさえなっているのであるが、言葉の意味は、さまざまな誤解をまねいたようであった。
今の文学の種類には、純文学と、芸術文学と、純粋小説と大衆文学と、通俗小説と、およそ五つの概念が巴《ともえ》となって乱れているが、最も高級な文学は、純文学でもなければ、芸術文学でもない。それは純粋小説である。しかし、日本の文壇には、その一番高級な純粋小説というものは、諸家の言のごとく、殆《ほとん》ど一つも現れていないと思う。純粋小説の一つも現れていない純文学や芸術文学が、いかに盛んになろうと、衰滅しようと、実はどうでも良いのであって、激しく云うなら、純粋小説が現れないような純文学や芸術文学なら、むしろ滅んでしまう方が良いであ
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