に転倒した。彼女は酒だ。彼は能子の唇を狙つて傾いて行く患者である。
水滴型の自動車が、その膨れた尖端で、街を落下するやうに疾走した。久慈と能子がホテルへと行くのである。ガードの下腹。鉄の皮膚に描かれた粗剛な朱色の十字を指差して、能子は云つた。
「あなた、あたしはあれが恐いの。」
久慈が振り向くとガードの上を貨物列車が驀進した。擦れ違ふオートバイ。電車の腹。警官の両手をかすめてトラツクが飛び上る。キヤナルの水面に光つた都会の足。下水の口で休息してゐる浚渫船。
「あなた、あたしは、あれが好きなの。」
ホテルでは、クツシヨンの中から百貨店の匂ひがした。久慈は上着を脱いでテラスヘ立つた。噴水のアーチの中を二羽の鵞鳥が夢のやうに泳いでゐる。
「まア、あれを御覧なさいな。あれは古風な恋愛よ。あたしはあんなのを見てゐると、羽根枕を目茶苦茶に叩きつけてやりたくなるの。」
「君には情緒といふものがないんだね。」
「ええ、さう、あたしはあんな鵞鳥を見てゐると、この欄干の上で逆立ちしてみたくてならないの。」
「僕は君とは反対だ。先づここで煙草を吸つて、」
「あなたには進化といふものがないんだわ。もしあたしがあなただつたら、首を縊るより仕方がないわ。」
「もし僕が君だつたら、刑務所へでも這入りたい。」
「ぢや、とてもあなたとは駄目なのね。あたし、こんなことをしてゐても、明日の朝は電車で足を踏まれぬやうに、と思つてゐる人間なの。」
「所が、僕は、君がいたつて好きなんだ。」
「まア、もう少し、お上手にお仰言つたつて。」
「いや、さう云はれると羞しくなるんだが。」
「あたし、あなたのお顔を見てゐると、競子さんに黙つて来たのが残念だわ。」
「競子は競子。」
「能子は能子? ね、あなた、ちよつとこちらを見て頂戴。あたしは今夜は、顔を洗ひに来たんだから、もうシヨツプガールぢやないことよ。まあ、鵞鳥だつて、あんなに優しく二人の前で泳いでゐるし、あたしだつて、ここのボーイを蹴飛すぐらゐなんでもないわ。」
「いや、今夜はなるたけ、音無しくしてゐてくれ給へ。」
「あたしは、あなたが好きなのよ。こんなに、こんなに云つたつて。あらあら、あれはシエラザアト、あなた。ちよつと。」
能子は石の上に上つてゐる久慈の手を持つて、引き摺り降ろすと、突きあたりながら踊り出した。
「君は、なかなか乱暴だ。」
「だつて、あ
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