留守をしてゐてくれたHが、北川冬彦氏の来訪を話しながら、「いろいろ戦災の話を人から聞いたが北川氏が一番ひどい目にあってゐる」と語って、猛火の底の氏の死闘のさまを髣髴させた。それから半年、ある詩の雑誌が私の手元に届いた。拓くと中に北川氏の「渡船場附近」という短篇が見えてゐる。一読して、私は終戦以来眼にした最も佳い作品の一つだと思った。太く一気に吐いた呼吸のその見事さ、厚朴醇美の貴格ある整正。次に一年してから、この花電車の詩の草稿が私の手に届けられた。

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アンリ・ルッソオの絵を見ると
その場で
固い心もなごやかになり頬も思わずほころびてしまう
こんな平和をたゝえている絵はめずらしい
こんな平和の気分をまき散らしている絵はない
底なしの平和郷だ(平和郷)
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 ルッソオはまたここへも出て来たのである。猛火の底をかい潜って出て来たこのルッソオは、花電車に乗ってゐるのだ。ちんちんちんと鳴って来るのは、何の音か。頓風おのづから起って消えていくところを見てゐると、

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「あの電車ウソ電車ね 乗れないんだもの」三歳のわが子が口走った
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