ため一命は助かり、今では元のように健全に這《は》い廻《まわ》っていると書いてあった。
彼は直ぐペンをとると、手紙を粗雑に書くのもほどがあるというような意味の怒った手紙を姉に書き始めた。が、それも力抜けがして中途で止《よ》してしまった。彼は重味のとれた怠惰《たいだ》な気持ちでぼんやり庭の白躑躅《しろつつじ》を眺めていた。それから暫くたった時、今日はうまい物を腹いっぱい食べて銭《かね》を費《つか》ってしまってやろうと思った。寿司《すし》が第一に眼についた。
彼は下宿を出た。が、気持ちがせかせかして周章《あわ》ててばかりいた。人が一といっている時自分が二といっているようだ。何か禍《あやま》ちをしそうな気がした。
十二
休暇になると彼は直ぐ姉の処へ帰った。
幸子は一人|表《おもて》の間《ま》の格子《こうし》の桟《さん》を両手で握ってごとごと揺《ゆす》っていた。彼女は二つだ。
「ゆき、帰ったぞ。」
彼が音高く姪の前へどんと坐った。姪は恐《こ》わそうな顔をして一つ桟を向うへ渡った。
彼は自分の長い頭の髪が恐く見えるのだと思ったので、帽子《ぼうし》を深く冠《かぶ》って髪を隠すと前へいざり出た。
「こりゃ、さア来い。」
すると幸《ゆき》は少し周章《あわ》ててまた二つ三つ桟を向うへ渡ってから彼の方を振り向いた。
「うむ? 何んだい。」
彼が立って抱こうとすると、姪は桟を持ったまま叩かれた蝉《せみ》のように不意に泣き出した。彼はぼんやりとしてしまった。
十三
休暇中の彼の仕事は殆《ほとん》ど幸子の見張りのために費された。無論それは誰からも命令《いいつ》けられた役目ではなかった。しかしそれにもかかわらず、幸子は不思議なほど彼に懐《なつ》かなかった。彼は顔をいろいろ歪《ゆが》めて彼女を笑わせたり、やり過ぎるほど菓子をやったりしたあとで、もういいだろうと思って恐《こ》わ恐《ご》わ「御身よ御身よ。」といいながら彼女の手を握る。すると、幸子は直ぐ「ふん、ふん。」と鼻を鳴らせて手を引いた。そんな時彼は淋しい気がした。何か子供の直感で醜さを匂《におい》のように嗅《か》ぎつけているのではないかと恐れることもあった。
「俺はなるほどいけない奴だ、だけど俺はお前が可愛《かわい》くっての。」
彼はそんなことを口の中でいいながら抱きたい気持ちを我慢していた。が、時々衝動的に抱きたくなることがあった。
ある時いやがる姪を無理に膝の上へ抱きあげた。姪は初めの間|反《そ》り返《かえ》って鼻を鳴らしていた。彼はそれをも関《かま》わずだんだん力を籠《こ》めて抱きすくめてゆくと泣き出した。が、放してやれば直ぐ泣き止むらしい泣き方だったので放さないでいると、いよいよ悠長な本泣《ほんな》きに変ってきた。彼は前へ押し出してやった。幸はいかにも恐ろしい手から逃がれでもするように急いで遠くまで這い出してから、裸体《はだか》の膝頭《ひざがしら》を二つ並べたませ[#「ませ」に傍点]た格好に坐っていつまでも泣いていた。彼はもう一度抱いてやるぞという意を示してどっと身体を動かすと、彼女は泣き声を一層張って周章《あわ》てて後へすざった。
(俺のどこがそんなに嫌いなのだろう、それに何《な》ぜ此奴《こいつ》がこんなに可愛いのだろう。)
彼は直ぐ友達へ出す葉書にこう書いた。
「愛という曲者《くせもの》にとりつかれたが最後、実にみじめだ。何ぜかというと、われわれはその報酬を常に計算している。しかしそれを計算しなくてはいられないのだ。そして、何故計算しなくてはならないかという理由も解らずに、しかも計算せずにはいられない人間の不必要な奇妙な性質《たち》の中に、愛はがっしりと坐っている。帳場《ちょうば》の番頭《ばんとう》だ。そうではないか?」
とにかく彼は幸子に触れずに終日見張りをしていなければならなかった。この仕事はなかなか神経を疲らせた。そうかといって、姉が彼の番を信用して溜っているいろいろの仕事にかかっている以上彼は姪を抛《ほ》っておくわけにはいかなかった。うかうか本に読み耽《ふけ》っているともう彼女は母を捜そうとして壁を伝いながら危険な腰つきで縁側《えんがわ》や上《あが》り框《かまち》の端へ行き、「ばア、ばア。」といいながら見えない向うの庭の方を覗《のぞ》こうとする。すると、彼は泣くのもかまわず室《へや》の中へ連れて来る。また出る。また連れ込む。こんなことを一日に幾回となく繰り返す。全く彼は幸子と一緒にいると遊ぶことも出来なければ、自分の仕事も出来なかった。ただ彼女の見える室の中に坐っていらいらしながらぼんやりしているより仕方がなかった。時々それが耐えられなくなると、彼は声を張り上げて幸子の周囲を躍《おど》りながら呼吸の続く限り馳け廻った。すると幸子は意味の通じぬことを口走って上機嫌になる。彼がへとへとになって仰向きに倒れて、「アーア。」というと、彼女も同じように彼の横へ寝転んで、「アー。」という。しかし彼が少しでも手を触れると直ぐ泣き顔をして口をとがらして起き上る。
「御身よ、御身よ。」彼はただそういって見ているより仕方がなかった。
彼は姉の家を去る時、もう此処《ここ》へは帰るまいと思った。
十四
しかし、次の夏またやはり彼は姉の処へ帰ってしまった。彼が姉の家へ着いた時誰もいなかったので、一人茶の間に寝転んで本を見ていた。暫《しば》くすると姉が帰って来て、幸子を背から下ろした。
彼はいきなり[#「いきなり」に傍点]幸福を感じた。
「そうら、あれ、誰あれ?」と姉はいって彼を指差した。
幸子は顔を顰《しか》めて、彼を見ながらだんだん後へ退《さが》ってゆくと、上《あが》り框《かまち》から落ちかけようとして手を拡げた。
「危《あぶな》い。」とおりかはいって幸子を受けた。
「知らんのかお前、あれ叔父ちゃんえ。」
幸子はおりかの肩へ手を置いてやはり彼を眺めていた。
「お前忘れんぼやな、あれ叔父ちゃん。」
「叔父《おい》ちゃん。」と幸子は真似た。
彼は何ぜだか羞《はずか》しい気がした。黙って笑っていると、幸子はくるりと向うをむいて母親の襟《えり》の間へ顔を擦《す》り寄《よ》せた。
十五
彼は自分の幸子に対する愛情の種類を時々考えて、
「俺は恋をしてるんだ。」とまじめに思うことがあった。
彼のせめてもの望みは、幸子を一度、ただの一度でいいしっかりと抱いてやる、そして、彼女はぴったりと彼に抱かれることだった。更にそれ以上の慾をいえば、いつでも彼の欲する時に彼女が彼に抱かれることだった。実際彼はこのことに苦しめられた。しかし、彼の受けた愛の報酬もやはり前の夏の休暇と同じように冷《つめ》たいものであった。彼は幸子を憎く感じる日がだんだん増して来た。
「幸子はなぜ俺に抱かれないのだろう。」
と彼は姉に訊《たず》ねた時、姉は、
「お前あらっぽいからや。」とひと口でいった。
しかしそんなことではなさそうだった。が、幸子は彼以外の男にはそう親しみのない者にでも温和《おとな》しく自分を抱かせる所から見ると、あるいはそうであるかもしれないとも思った。とにかく幸子の一番嫌いな者はこの叔父であるらしかった。そして、叔父の一番好きな者は幸子であった。
「俺はもう幸《ゆき》の守《もり》はこりこりだぞ。俺が傍にいるからと思って安心されると困るよ。殊に俺のような男は信用されればされるほどお人好しになるからな。だけどもう知らないぞ、うるさい。」
こんな前置きをいっておいてもやはりおりかは彼を信用して仕事をした。信用されると彼もその気で愚痴《ぐち》をいいながら幸子の守をした。そして、彼女に触《さわ》らないようにと欲望を耐えて、いろいろ顔を歪めたり逆立ちをしたりして、幸子を笑わそうと自分の自尊心を傷つけた。彼女が笑うと、彼はいよいよ乗り気になって赤い顔をしながら本気に犬の真似をしたり、坂道を昇る自転車乗りのペタルを踏む真似をしたりしてはしゃいだ。が、途中で急に彼は不気嫌になって黙ってしまった。すると、幸子はひとり首を振り振りペタルを踏む真似をして、「チンチンチン。」といいながら室《へや》の中を馳け廻った。彼女にとっては、この叔父さんは全く壁に等しい代物《しろもの》であるらしかった。
「今に見ろ。」そう彼は幸子を見て独《ひと》り言《ごと》をいった。
底本:岩波文庫「日輪 春は馬車に乗って 他八篇」岩波書店
1981(昭和56)年8月17日第1刷
1997(平成9)年5月15日第23刷
入力:大野晋
校正:しず
1999年7月9日公開
2000年4月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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