を寄せてそういうと盥の水を捨てに裏の方へ行った。
彼は気が沈みそうになると、
「くそッ死ね!」といって一度背後へひっくり返ってから勢好く立ち上った。
七
幸子の臍はその後だんだん堅まっていった。初め彼の見た時には、腹部を漸く包んだ皮膚の端を大きくひねって無雑作《むぞうさ》にまるめ込んだだけのように見えた。そして、彼女が泣く時臍は急に飛び出て腹全体が臍を頭としたヘルメットのような形になってごぼごぼ音を立てた。それはいつ内部の臓《はらわた》が露出せぬとも限らぬ極めて不安心な臍だった。それにおりかは割りに平気であった。ある時彼は姪の臍の上に二銭丸の載っていない所を見付けた。彼は自分の読んだ書物の中で、そのような臍は恐るべき命《いのち》とりだと医者がいっていたということを、巧妙な嘘を混じえて姉にいいきかして嚇《おど》かした。
「そうかしら。」
そう姉はいうとちょっと笑って、
「死ぬものか、これ見な。」といって娘の臍をぽんと打った。
「馬鹿。」と末雄は笑いながら睥《にら》んだ。
するとおりかはまた二、三度続けさまに叩いてから、「ちょっと指を入れとおみ。」といった。
彼はふと弄《いら》ってみる気になって、人差指で姪の臍の頭をソッと押してみた。指さきは何の支えも感じずに直ぐ一節《ひとふし》ほど臍の中に隠された。それ以上押せば何処《どこ》まででも這入《はい》りそうな気がしてゾッとすると、
「いやだ。」といって手を引っこめた。
しかしこんな不安は間もなくとれた。そして、或《あ》る日おりかは彼に幸子が笑い出したと嬉しそうにいった。
見ているとなるはど時々幸子は笑った。それは何物が刺戟《しげき》を与えるのか解らない唐突《とうとつ》な微笑で、水面へ浮び上った泡のように直ぐ消えて平静になる微笑であった。しかしまたその微笑を見せられた者は、これは人生の中で最も貴重な装飾だと思わずにはいられない見事な微笑であった。
八
夕暮、人の通らない電車道の傍で鶏《にわとり》にやるはこべ[#「はこべ」に傍点]を捜していると、男の子が一人石を蹴《け》りながら彼の方へ来た。彼はその子の家に黒い暖簾《のれん》が下っていたのを思い出して、誰が死んだのかと訊いた。男の子は黙っていた。
「だれが死んだのや。」
ともう一度訊くと、
「赤子《あか》や。」と答えた。
「ふむ赤子か、どうして死んだ?」
すると男の子は羞しそうな顔をして馳《か》け出《だ》そうとした。彼は男の子の手首を素早く握った。
「なアどうしてだ、うむ、いったら豪《えら》いぞ。」
が、男の子はやはり答えずに彼の握った手を振り放そうとして口を歪《ゆが》めた。
彼は少し恐い顔をして手首を放した。男の子は逃げもせずそろそろと電車道まで来ると、レールの上へ跨《また》がって腰を下ろした。
彼はその方を向かないようにして草の中に蹲《しゃが》んでいると、男の子は向うから、
「教えてやろうか、なア?」といい出した。
「アア教えてくれ、どうして死んだんだ?」
男の子は硝子《ガラス》の破片でレールの錆《さび》を落しながら暫く黙っていてから、
「いやや。」とまたいった。
彼は男の子を黙って見詰めていた。すると、
「お母アが乳で殺さはったんや。」とその子はいった。
「乳でってどうしてだ?」
「あのな、昼寝してて殺さはったんや。」
彼には全く何のことだか解らなかったので子供の顔を見続けていた。男の子は何《な》ぜだか眩《まぶ》しそうな顔をしてちょっと彼を見上げると、急に向うの方へ馳け出した。
暫くして彼は、男の子の母親が赤子に添い寝をしていて乳房《ちぶさ》で鼻孔《びこう》を閉塞《へいそく》させたのだと近所の人から教わった。そんな殺し方は彼には初耳だった。が、なるほどと思った。それから急に彼は姉の乳房が気になり出した。
次の日彼は姉の家へ出かけて行くと直ぐそのことを話した。
「そりゃ死ぬわさ。ようあることや。」と姉はいった。
「知ってたのか。」
「そんなこと知らんでどうする、末っちゃんは私《あて》を子供見たいに思うてるのやな。何んでも知ってるえ私《うち》ら。」
そういって姉は笑った。彼は少し安心が出来た。が、その直ぐ後で姉は、幸子と三日違いに生れた隣家の赤子が三日前に肺炎で亡くなったということや、久吉の友人の赤子も今肺炎にかかっていてもう医者に手を放されたということを話した。
「やれやれ。」と彼は思った。生き続けて大きくなってゆくということは、よほどむずかしいことのように思われて気が重苦しくなってしまった。
二、三日してから彼は上京した。上京する時ちょっと姉の家へ寄ると、久吉の友人の赤子がとうとう死んだと聞いた。彼は淋しくなった。縁側に立っていると、隣家から赤子の回向《えこう》の鉦《かね》の音が聞えて来た。初秋の涼しい夜だ。すると、
「昔|丹波《たんば》の大江山《おおえやま》。」と子供の歌う声がして、急に鉦はそれと調子を合せて早く叩かれた。
「阿呆《あほ》やな。」と直ぐ母親らしい叱る声がした。
彼がこちらで笑い出すと、おりかも何処か暗い処で笑い出した。
九
次の春の休暇に帰って彼が姉の家へ着いた時、幸子は彼の母の膝の上で、一枚の新聞を両手で三度に引き破っている所だった。
「ソラ。」
彼は玩具《おもちゃ》の包みを炬燵《こたつ》の上へ置くと、自分も母や姉のように蒲団《ふとん》の中へ足を入れた。母は包みを解いて中からセルロイドの人形を出した。
「そうれユウちゃん。兄さんがな。」
「兄さんやない叔父さんやはなア。」と姉は幸子を見ていった。
「アそかそか、叔父さんがな、遠い所でこんなにええ物|買《こ》うて来ておくれはった。アーええこと、ソーラ。」
彼の母が人形を差し出すと幸子は祖母の顔と人形とを暫《しばら》く交《かわ》り番《ばん》こに眺めていてから、そろそろと人形の方へ手を出した。
「あの顔。」といっておりかは笑った。そして、自分でまた別の猿の頭をゴムで作った小さい玩具を出して幸子の鼻の前へ持っていった。
「そうれユウちゃん、こんどは猿《えて》さん。」
するとおりかは猿の頭を押したと見えて、猿の口から細長い袋になっている赤い舌が飛び出した。幸子は眼をパチパチさせて反《そ》り返《かえ》ったが、頭が母の胸で止《と》められると眼をつむって横を向いてしまった。皆が笑った。が、彼は疲れていたのでひとり恐《こわ》い顔をして、
「大きゅうなったね。」と一口言った。
「そう、大きゅうなってる? お母さん、ユウが大きゅうなったって。」
と姉は傍にいる母にいってきかせた。
「そりゃ大きゅうなってるわさ。」
「そうかしら、ちっとも大きゅうなったように見えやへんけど、傍にいるでやな。」と姉は嬉しそうにいった。
十
二、三日して前《さき》に日向《ひゅうが》へ行っている彼の父から母に早く来いといって来た。母は孫の傍から離れてゆくのを厭《いや》がったがとうとう行くことになった。
出発の時、汽車の窓から首を出している彼女の前には、久吉とおりかと、おりかの肩から顔を出している幸子とそれから彼とが並んで立っていた。彼も皆も今別れれば何日《いつ》また会えるか解らなかった。
汽車が動き出した。
「バーゆうちゃん、バーア、行って来るえ。バーア。」
彼の母は孫の顔ばかりを見ていた。彼はもう母が自分の方を向くか向くかと待っていた。
おりかは片肩を歪めて幸子を前へ突き出すようにしたが、幸子は口を開いて汽車の動くのを眺めていた。
「バーア、ゆうちゃんゆうちゃん、バーア、行って来るえ、バーア。」
遂々《とうとう》母は彼の方を一度も見なかった。汽車が見えなくなると、彼は姉夫婦から離れて前《さき》に急いで改札口から外へ出た。子よりも孫の方が可愛いらしい、そう思うと、その日一日彼は塞《ふさ》いでいた。
十一
休暇が終ると彼は上京した。その前日去年生れた赤子の種痘《しゅとう》を近日するという印刷物が姉の家へも配られた。久吉とおりかは別に掛り医の所でさそうといっていたが、彼はそれさえも出来ることならさせたくなかった。何となく姪が汚なくなるような気がしたからだ。
二週間ほどして、姉から末雄の所へ来た手紙の中に、幸子は種痘してから五日にもなるがまだ熱がひかないので弱っているということが書いてあった。子供に種痘をすれば暫く熱が出ること位彼も知っていたが、それは五日も続くものだろうか、何か他の病気になったのではなかろうかとそんな掛念《けねん》が起って来た。姉の手紙の書き方が彼の想像を限定させないので彼は困った。そして、直ぐ容子《ようす》を訊き返した手紙の中に是非返事を直ぐ呉《く》れるようにと書いて出した。が、返事は四日たっても来なかった。彼は外から帰って来る度《たび》に手紙が来ていないかと女中に訊いた。外へ出ている時にも、返事がもう来ているだろうと思うと急に下宿へ引き返した。が、返事は一週間たっても来なかった。彼は腹を立てて、
「どうにでもなれ。」という気を出そうと強《し》いてつとめてみた。が、絶えず何かに脅《おびや》かされているような気持ちでまた一週間待った。その夜姉から手紙が来た。それは所々|塗抹《ぬりつぶ》された粗雑な文字で、
「幸子は種痘から丹毒《たんどく》になりましたが、漸く片腕一本で生命が助かりました。」
とただそれだけが書いてあった。
彼は片腕を切断された幸子が、壊れた玩具のように畳の上でごろごろ転っている容子《ようす》を頭に浮かべると、対象の解らない怒りが込み上げて来た。彼はペンをとって葉書へ、
「幸子を姉さんのような不注意者に与《あず》けて置いたということが、こんな罪悪を造ってしまったのだ。」
と書いた。書いている中《うち》に涙が出て来て、インクを次ぐ時壺の中へうまくペンのさきが嵌《は》まらなかった。
彼はその葉書を持って外へ出た。
「とうとうやって来た。」
彼は自分を始終脅かしていた物の正体を明瞭に見たような気持ちがした。その形が彼の前に現れたなら必死になってとり組んでやると思った。不思議な暴力が湧《わ》いて来たがしかしどうとも仕様《しよう》がなかった。その中に幸子の大きくなってから一生彼女の心を苦しめる不幸を思うと、もう彼は暗い小路の中に立ち停ってしまった。
「俺の妻にしてやろう。」
ふと彼はそんなことを考えると、自分と姪の年の差を計ってみた。それから、自分の顔と能力とを他人に批《くら》べた。
「何アに、俺に不足があるものか、必ず幸福にしてみせるぞ。他人の誰よりも俺は愛してやる。よしッ、何アに。」
彼はまた歩き出した。が、壊れ人形のような姪の姿がちらちらするとまた涙が出て来た。
「罪悪だ、実に馬鹿にしている、罪悪だ!」
彼は何か出張《でば》った石の頭に蹉《つまず》いて踉《よろ》けた。
「糞《くそ》ッ!」と彼は怒鳴《どな》った。
蕎麦屋《そばや》の小僧が頭に器物《うつわもの》を載せて彼の方へ来た。彼はその器物を突き落とそうとして睥《にら》みながら小僧の方へ詰め寄っている自分を感じた。小僧は眼脂《めやに》をつけた眼で笑いながら、
「ヤーイ。」というと彼の方へ片足をあげた。
彼は素通りした。三間《さんげん》ほども行き過ぎてから、器物を落とされたときの間の抜けた顔をしている小僧が浮ぶと、彼は唐突に吹き出して笑った。と、笑いながら酔漢《よっぱらい》のように身体を自由にぐらぐらさせて歩きたくなって来た。自棄酒《やけざけ》を飲みたくなった。
片腕のとれた姪を見る気がしなかったので、もう彼は直ぐ来る夏の休みにも帰るまいと思った。そして、日向の父にそのことを報《し》らせると、父からは直ぐ返事が来て、幸子が腕を切断したというのは何かの間違いだろう、心配することはない、と書いてあった。すると偶然その日義兄の久吉からも手紙が来て、幸子も毒が片腕に廻っただけで身体へ来なかった
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