ういった。が、その中《うち》にもうとても溜《たま》らなくなって来た。彼は竊《そ》ッと姪の黄色な枕の下へ手を入れて彼女の頭を浮き上らせると、姪はぴたりと泣きやんだ。彼は姪を抱き上げてやる気はなかった。で、にたりと笑いながらまた静に手放すと、彼女は前より一層声を張り上げて全身の力で、「アッハ、アッハ、アッハ。」と泣き立てた。
彼はうまい手を覚えたつもりでもう一度それを繰り返そうとした。が、ふと、幸子《ゆきこ》は生れて今初めて瞞《だま》されたのではなかろうかと思った。
(その最初の瞞し手がこの叔父だ。)
そんな風に考えると、彼は自分のしたことがそう小さいことだとは思えなくなった。彼は姪を抱き起した。そして、謝罪の気持ちで姉が帰って来て乳を飲ませるまで抱き通してやった。
六
次の日、山越しに彼は家へ帰った。
「まア昨日《きのう》帰ると思うていたのえ。お寿司《すし》こしらえといたの腐ってしもうた。」
そういって母は盥《たらい》に水をとってくれた。
「昨日着いたんだけれど、一日姉さんとこの小女《こめ》と寝転んでいた、あの小女は可愛らしい顔をしてますね。」
「それでもお臍《へそ》が大きいやろ。あんまり大き過ぎるので擦《す》れて血が出やへんかしら思うて、心配してるのやが、どうもなかったか?」
「そうか、そんなに大きいのか。」
彼は足を洗いながらある女流作家の書いた、『ほぞのお』という作の中で、嬰児《えいじ》の臍から血が出て死んでゆく所のあったのを想い出すとまた不安になって来た。
「そんなことで死んだ子ってありますか?」
「あるともな。」
「死にゃせぬかなア。」
母は黙っていた。
「どうしたら癒《なお》るんだろう、お母さん知りませんか。」
「私《うち》おりかに二銭丸《にせんだま》を綿で包んで臍の上へ載せて置けっていうといたんやが、まだしてたやろな?」
「ちっとも見ない。」
「そおか。う――んと気張ると、お前の胃みたいにごぼごぼお臍が鳴るのや。お前胃はもうちょっと良うなったかいな?」
彼は足を洗ってしまったのに、まだ上《あが》り框《かまち》に腰を下したまま盥の水を眺めていた。暫《しばら》くして、
「死にゃせぬかしら。」とまたいった。
「どうや知らぬわさ。お前髪をシュウッととき付けたらええのに、痩《や》せて見えて。」
母はちょっと眉を寄せてそういうと盥の水を捨てに裏の方へ行った。
彼は気が沈みそうになると、
「くそッ死ね!」といって一度背後へひっくり返ってから勢好く立ち上った。
七
幸子の臍はその後だんだん堅まっていった。初め彼の見た時には、腹部を漸く包んだ皮膚の端を大きくひねって無雑作《むぞうさ》にまるめ込んだだけのように見えた。そして、彼女が泣く時臍は急に飛び出て腹全体が臍を頭としたヘルメットのような形になってごぼごぼ音を立てた。それはいつ内部の臓《はらわた》が露出せぬとも限らぬ極めて不安心な臍だった。それにおりかは割りに平気であった。ある時彼は姪の臍の上に二銭丸の載っていない所を見付けた。彼は自分の読んだ書物の中で、そのような臍は恐るべき命《いのち》とりだと医者がいっていたということを、巧妙な嘘を混じえて姉にいいきかして嚇《おど》かした。
「そうかしら。」
そう姉はいうとちょっと笑って、
「死ぬものか、これ見な。」といって娘の臍をぽんと打った。
「馬鹿。」と末雄は笑いながら睥《にら》んだ。
するとおりかはまた二、三度続けさまに叩いてから、「ちょっと指を入れとおみ。」といった。
彼はふと弄《いら》ってみる気になって、人差指で姪の臍の頭をソッと押してみた。指さきは何の支えも感じずに直ぐ一節《ひとふし》ほど臍の中に隠された。それ以上押せば何処《どこ》まででも這入《はい》りそうな気がしてゾッとすると、
「いやだ。」といって手を引っこめた。
しかしこんな不安は間もなくとれた。そして、或《あ》る日おりかは彼に幸子が笑い出したと嬉しそうにいった。
見ているとなるはど時々幸子は笑った。それは何物が刺戟《しげき》を与えるのか解らない唐突《とうとつ》な微笑で、水面へ浮び上った泡のように直ぐ消えて平静になる微笑であった。しかしまたその微笑を見せられた者は、これは人生の中で最も貴重な装飾だと思わずにはいられない見事な微笑であった。
八
夕暮、人の通らない電車道の傍で鶏《にわとり》にやるはこべ[#「はこべ」に傍点]を捜していると、男の子が一人石を蹴《け》りながら彼の方へ来た。彼はその子の家に黒い暖簾《のれん》が下っていたのを思い出して、誰が死んだのかと訊いた。男の子は黙っていた。
「だれが死んだのや。」
ともう一度訊くと、
「赤子《あか》や。」と答えた。
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング