気がついた。親の腹が痛くなくとも子の身体は痛んでいるかも分らなかった。もう医者に姉の腹を見せるより仕方がないと彼は思った。しかし、見せるとすればまたどうしても一度は彼の心配の仕方を姉に話さなければならなかった。これが彼には羞しくて厄介《やっかい》だった。正式な結婚で姉は人妻になっているとはいえ、とにかくいずれ不行儀な結果から子供が産れて来たにちがいない以上、それをお互に感じ合う瞬間が彼にはいやであった。彼が黙っているので姉も黙っていた。
 「まだ痛い?」と姉は暫《しばら》くして訊いた。
 「もういいんだ。」
 「降りたら薬屋があるわ。小寺さんなら近いし。痛い?」
 小寺さんとは近くの医者の名であった。
 「もう癒《なお》ったよ。」と彼はいうと、
 「それでも診《み》てもろうておく方がええやないの。」と、今度は姉から彼に医者をすすめ出した。
 彼は聞かぬ振りをしてどしどしと山を下った。

     三

 四月には彼は東京にいた。女の子が生れたという報知《しらせ》を姉の良人《おっと》から受け取ったのは五月であった。
 「しめた!」と彼は思った。そして、今まで誰にもいわずに隠《かく》していた不安は、全く馬鹿気たことだったのだと思って可笑《おか》しかった。
 「やっと叔父《おじ》さんになったぞ。」
 そう思うと彼は文句なしに人間が一段|豪《えら》くなったような気がした。

     四

 六月に末雄は帰省した。彼は姉の家へ着くと直ぐ黙って上ろうとした。が、足が酷く汚れていたので膝《ひざ》で姪《めい》の寝ているらしい奥の間の方へ這《は》い出《だ》した。黄色い坐蒲団《ざぶとん》を円《まる》めたようなものが見えた。
(いるいる。小っぽけな奴だ。)
 彼はにたりと笑いながら姪の上へ蚊帳《かや》のように被《かぶ》さった。
(待て、こりゃ俺に似とるぞ。)
 彼は姪の唇を接吻した。つるつる滑《すべ》る乳臭い唇だ。姪は叔父を見ながら蝸牛《かたつむり》のような拳《こぶし》を銜《くわ》えようとして、ぎこちなく鼻の横へ擦《す》りつけた。
(こ奴《いつ》、俺そっくりじゃないか。)
 彼は不思議な気がすると、笑いながら、俺の子じゃないぞと思った。
(よし。一人増した!)
 彼は何かしらを賞《ほ》めてやりたかった。これこそ俺の味方だ、嘘《うそ》ではないぞ、と思った。
 姉のおりかは笑いながら晴れやかな顔をして縁側《えんがわ》から上って来た。
 「何時の汽車、二時?」
 「こ奴俺に似とるね。似てないかね。」
 おりかは娘を見下《みおろ》すと、黙って少し赧《あか》い顔をして肩から襷《たすき》をはずした。
 「ね、似とるよ、何っていう名だね?」
 「ゆきっていうの。」
 「ゆき?」
 「幸村《ゆきむら》の幸《ゆき》っていう字。」
 「さいわいか?」
 「そやそや。」
 「あんな字か、俺ちゃんと考えといてやったんだがな。辞引《じびき》ひっぱったのやろ?」
 「漢和何とかいうの引いたの。末っちゃんに考えてもらえって私《うち》いうたのやけど、義兄《にい》さんったらきかはらへんのや。いややなアそんな名?」
 「こりゃ可愛《かわい》い子だ。俺に似るとやっぱり美人だな。」
 「そうかしら、お風呂で芸者はんらがな、こんな可愛らし子どうして出来るのやろいうて取り合いしやはるのえ。」
 「いい子だよ。苦労するぜ姉さんは。」
 末雄は姉を見て笑うと、急に自分のませ[#「ませ」に傍点]た態度が不快になった。彼は立って井戸傍《いどばた》へ足を洗いに行った。それから疲れていたので姪の傍にくっついて寝たが、姉が見ていなかったので姪の手を引っぱったり鼻をつまんだりしてなかなか眠つかれなかった。

     五

 彼は遠くで赤子の泣き声のしている夢を見て眼が醒《さ》めた。すると、傍で姪が縺《もつ》れた糸を解《ほど》くように両手を動かしながら泣いていた。
 「アッハ、アッハ、アッハ、アーッ。」
 そういう泣き方だ。彼は前に読んだ名高い作家の写生的な小説の中で、赤子の死ぬ前にそれと同じ泣き方をする描写があったのを思い出した。彼は不安な気がして姉を呼んだ。姉はいなかった。で、姪を抱き上げて左右に緩《ゆる》く揺《ゆす》ってやると直ぐ泣きやんだ。
 「死ぬのじゃなかった。」
 そう思って彼は静《しずか》に寝かしてやると、また、「アッハ、アッハ。」と泣き出した。彼はまた抱き上げた。するとやはり泣きやんだ。こんな同じことを辛抱強く四度ほど繰り返すうちに、もう彼は面倒臭くなって来て、身体に力を籠《こ》めながら欠伸《あくび》を大きくした。姪は腹のあたりを波立たせて、「アッハ、アッハ。」と泣いた。
 彼はいらいらして来た。が、姪はしきりに泣き続けた。
 「泣け泣け。」
 彼はじっと憎々しい気持ちで姪を眺めながらそ
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