かべると、対象の解らない怒りが込み上げて来た。彼はペンをとって葉書へ、
 「幸子を姉さんのような不注意者に与《あず》けて置いたということが、こんな罪悪を造ってしまったのだ。」
 と書いた。書いている中《うち》に涙が出て来て、インクを次ぐ時壺の中へうまくペンのさきが嵌《は》まらなかった。
 彼はその葉書を持って外へ出た。
 「とうとうやって来た。」
 彼は自分を始終脅かしていた物の正体を明瞭に見たような気持ちがした。その形が彼の前に現れたなら必死になってとり組んでやると思った。不思議な暴力が湧《わ》いて来たがしかしどうとも仕様《しよう》がなかった。その中に幸子の大きくなってから一生彼女の心を苦しめる不幸を思うと、もう彼は暗い小路の中に立ち停ってしまった。
 「俺の妻にしてやろう。」
 ふと彼はそんなことを考えると、自分と姪の年の差を計ってみた。それから、自分の顔と能力とを他人に批《くら》べた。
 「何アに、俺に不足があるものか、必ず幸福にしてみせるぞ。他人の誰よりも俺は愛してやる。よしッ、何アに。」
 彼はまた歩き出した。が、壊れ人形のような姪の姿がちらちらするとまた涙が出て来た。
 「罪悪だ、実に馬鹿にしている、罪悪だ!」
 彼は何か出張《でば》った石の頭に蹉《つまず》いて踉《よろ》けた。
 「糞《くそ》ッ!」と彼は怒鳴《どな》った。
 蕎麦屋《そばや》の小僧が頭に器物《うつわもの》を載せて彼の方へ来た。彼はその器物を突き落とそうとして睥《にら》みながら小僧の方へ詰め寄っている自分を感じた。小僧は眼脂《めやに》をつけた眼で笑いながら、
 「ヤーイ。」というと彼の方へ片足をあげた。
 彼は素通りした。三間《さんげん》ほども行き過ぎてから、器物を落とされたときの間の抜けた顔をしている小僧が浮ぶと、彼は唐突に吹き出して笑った。と、笑いながら酔漢《よっぱらい》のように身体を自由にぐらぐらさせて歩きたくなって来た。自棄酒《やけざけ》を飲みたくなった。
 片腕のとれた姪を見る気がしなかったので、もう彼は直ぐ来る夏の休みにも帰るまいと思った。そして、日向の父にそのことを報《し》らせると、父からは直ぐ返事が来て、幸子が腕を切断したというのは何かの間違いだろう、心配することはない、と書いてあった。すると偶然その日義兄の久吉からも手紙が来て、幸子も毒が片腕に廻っただけで身体へ来なかった
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