花園の思想
横光利一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)梯子《はしご》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夜|更《ふ》けて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)かもじ[#「かもじ」に傍点]
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一
丘の先端の花の中で、透明な日光室が輝いていた。バルコオンの梯子《はしご》は白い脊骨のように突き出ていた。彼は海から登る坂道を肺療院の方へ帰って来た。彼はこうして時々妻の傍《そば》から離れると外を歩き、また、妻の顔を新しく見に帰った。見る度《たび》に妻の顔は、明確なテンポをとって段階を描きながら、克明に死線の方へ近寄っていた。――山上の煉瓦《れんが》の中から、不意に一群の看護婦たちが崩《くず》れ出《だ》した。
「さようなら。」
「さようなら。」
「さようなら。」
退院者の後を追って、彼女たちは陽《ひ》に輝いた坂道を白いマントのように馳《か》けて来た。彼女たちは薔薇《ばら》の花壇の中を旋回すると、門の広場で一輪の花のような輪を造った。
「さようなら。」
「さようなら。」
「さようなら。」
芝生の上では、日光浴をしている白い新鮮な患者たちが坂に成った果実のように累々《るいるい》として横たわっていた。
彼は患者たちの幻想の中を柔かく廊下へ来た。長い廊下に添った部屋部屋の窓から、絶望に光った一列の眼光が冷たく彼に迫って来た。
彼は妻の病室のドアーを開けた。妻の顔は、花瓣に纏《まと》わりついた空気のように、哀れな朗かさをたたえて静まっていた。
――恐らく、妻は死ぬだろう。
彼は妻を寝台の横から透《す》かしてみた。罪と罰とは何もなかった。彼女は処女を彼に与えた満足な結婚の夜の美しさを回想しているかのように、端整な青い線をその横顔《プロフィール》の上に浮べていた。
二
彼と妻との間には最早《もはや》悲しみの時機《じき》は過ぎていた。彼は今まで医者から妻の死の宣告を幾度聞かされたか分らなかった。その度に彼は医者を変えてみた。彼は最後の努力で彼の力の及ぶ限り死と戦った。が、彼が戦えば戦うほど、彼が医者を変えれば変えるほど、医者の死の宣告は事実と一緒に明克《めいこく》の度を加えた。彼は萎《しお》れてしまった。彼は疲れてしまった。彼は手を放したまま呆然《ぼうぜん》たる蔵《くら》のように、虚無の中へ坐り込んだ。そうして、今は、二人は二人を引き裂く死の断面を見ようとしてただ互に暗い顔を覗《のぞ》き合《あわ》せているだけである。丁度、二人の眼と眼の間に死が現われでもするかのように。彼は食事の時刻が来ると、黙って匙《さじ》にスープを掬《すく》い、黙って妻の口の中へ流し込んだ。丁度、妻の腹の中に潜んでいる死に食物を与えるように。
あるとき、彼は低い声でそっと妻に訊《たず》ねてみた。
「お前は、死ぬのが、ちょっとも怖《こわ》くはないのかね。」
「ええ。」と妻は答えた。
「お前は、もう生きたいとは、ちょっとも思わないのかね。」
「あたし、死にたい。」
「うむ。」と彼は頷《うなず》いた。
二人には二人の心が硝子《ガラス》の両面から覗き合っている顔のようにはっきりと感じられた。
三
今は、彼の妻は、ただ生死の間を転っている一疋《いっぴき》の怪物だった。あの激しい熱情をもって彼を愛した妻は、いつの間にか尽《ことごと》く彼の前から消え失せてしまっていた。そうして、彼は? あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今は感情の擦《す》り切《き》れた一個の機械となっているにすぎなかった。実際、この二人は、その互に受けた長い時間の苦痛のために、もう夫婦でもなければ人間でもなかった。二人の眼と眼を経だてている空間の距離には、ただ透明な空気だけが柔順に伸縮しているだけである。その二人の間の空気は死が現われて妻の眼を奪うまで、恐らく陽が輝けば明るくなり、陽が没すれば暗くなるに相違ない。二人にとって、時間は最早愛情では伸縮せず、ただ二人の眼と眼の空間に明暗を与える太陽の光線の変化となって、露骨に現われているだけにすぎなかった。それは静かな真空のような虚無であった。彼には横たわっている妻の顔が、その傍の薬台や盆のように、一個の美事な静物に見え始めた。
彼は二人の間の空間をかつての生き生きとした愛情のように美しくするために、花壇の中からマーガレットや雛罌粟《ひなげし》をとって来た。その白いマーガレットは虚無の中で、ほのかに妻の動かぬ表情に笑を与えた。またあの柔かな雛罌粟が壺にささって微風に赤々と揺《ゆ》らめくと、妻はかすかな歎声を洩《もら》して眺めていた。この四角な部屋に並べられた壺や寝台や壁や横顔《プロフィール》や花々の静まった静物の線の中から、かすかな一条の歎声が洩れるとは。彼は彼女のその歎声の秘められたような美しさを聴くために、戸外から手に入る花という花を部屋の中へ集め出した。
薔薇は朝毎に水に濡れたまま揺れて来た。紫陽花《あじさい》と矢車草《やぐるまそう》と野茨《のいばら》と芍薬《しゃくやく》と菊と、カンナは絶えず三方の壁の上で咲いていた。それは華《はな》やかな花屋のような部屋であった。彼は夜ごとに燭台に火を付けると、もしかしたらこっそりこの青ざめた花屋の中へ、死の客人が訪れていはしまいかと妻の寝顔を覗き込んだ。すると、或《あ》る夜不意に妻は眼を開けて彼にいった。
「あなた、私が死んだら、幸福になるわね。」
彼は黙って妻の顔を眺めていた。そして、彼は自分の寝床へ帰って来ると憂鬱《ゆううつ》に蝋燭の火を吹き消した。
四
彼は自分の疲れを慰めるために、彼の眼に触れる空間の存在物を尽《ことごと》く美しく見ようと努力し始めた。それは彼の感情のなくなった虚無の空間へ打ち建てらるべきただ一つの生活として、彼に残されていたものだった。
彼は彼の寝床を好んだ。寝床は妻の寝室と同じであるとしても、軽症者の静臥《せいが》すべきベランダにあった。ベランダは花園の方を向いていた。彼はこのベランダで夜中眼が醒《さ》める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々《こうこう》として彼の視線を放さなかった。その海の断面のような月夜の下で、花園の花々は絶えず群生した蛾《が》のようにほの白い円陣を造っていた。そうして月は、その花々の先端の縮れた羊のような皺《しわ》を眺めながら、蒼然《そうぜん》として海の方へ渡っていった。
そういう夜には、彼はベランダからぬけ出し夜の園丁《えんてい》のように花の中を歩き廻った。湿った芝生に抱かれた池の中で、一本の噴水が月光を散らしながら周囲の石と花とに戯《たわむ》れていた。それは穏かに庭で育った高価な家畜のような淑《しと》やかさをもっていた。また遠く入江を包んだ二本の岬《みさき》は花園を抱いた黒い腕のように曲っていた。そうして、水平線は遙か一髪の光った毛のように月に向って膨《ふく》らみながら花壇の上で浮いていた。
こういうとき、彼は絶えず火を消して眠っている病舎の方を振り返るのが癖《くせ》である。すると彼の頭の中には、無数の肺臓が、花の中で腐りかかった黒い菌のように転がっている所が浮んで来る。恐らくその無数の腐りかかった肺臓は、低い街々の陽《ひ》のあたらぬ屋根裏や塵埃溜《ごみため》や、それともまたは、歯車の噛《か》み合《あ》う機械や飲食店の積み重なった器物の中へ、胞子を無数に撒《ま》きながら、この丘の花園の中へ寄り集って来たものに相違ない。しかし、これらの憐れにも死に逝《ゆ》く肺臓の穴を防ぎとめ、再び生き生きと活動させて巷《ちまた》の中へ送り出すここの花園の院長は、もとは、彼の助けているその無数の腐りかかった肺臓のように、死を宣告された腐った肺臓を持っていた。一の傷ついた肺臓が、自身の回復した喜びとして、その回復期の続く限り、無数の傷ついた肺臓を助けて行く。これが、この花園の中で呼吸している肺臓の特種な運動の体系であった。
五
ここの花園の中では、新鮮な空気と日光と愛と豊富な食物と安眠とが最も必要とされていた。ここでは夜と雲とが現われない限り、病舎に影を投げかけるものは屋根だけだった。食物は海と山との調味豊かな品々が時に従って華やかな色彩で食慾を増進させた。空気は晴れ渡った空と海と山との三色の緑の色素の中から湧《わ》き上《あが》った。物音とてはしんしんと耳の痛む静けさと、時には娯楽室からかすかに上るミヌエットと、患者の咳《せき》と、花壇の中で花瓣の上に降りかかる忍びやかな噴水の音ぐらいにすぎなかった。そうして、愛は? 愛は都会の優れた医院から抜擢《ばってき》された看護婦たちの清浄な白衣の中に、五月の徴風のように流れていた。
しかし、愛はいつのときでも曲者《くせもの》である。この花園の中でただ無為に空と海と花とを眺めながら、傍近く寄るものが、もしも五月の微風のように爽《さわや》かであったなら、そこに柔かな愛慾の実のなることは明かな物理である。しかし、ここの花園では愛恋は毒薬であった。もしも恋慕が花に交って花開くなら、やがてそのものは花のように散るであろう。何《な》ぜなら、この丘の空と花との明るさは、巷の恋に代った安らかさを病人に与えるために他ならない。もしも彼らの間に恋の花が咲いたなら、間もなく彼らを取り巻く花と空との明るさはその綿々《めんめん》とした異曲のために曇るであろう。だが、この空と花との美しき情趣の中で、華やかな女のさざめきが微笑のように迫るなら、愛慾に落ちないものは石であった。このためここの白い看護婦たちは、患者の脈を験《しら》べる巧妙な手つきと同様に、微笑と秋波《しゅうは》を名優のように整頓しなければならなかった。しかし、彼女たちといえども一対の大きな乳房をもっていた。病舎の燈火が一斉に消えて、彼女たちの就寝の時間が来ると、彼女らはその厳格な白い衣を脱ぎ捨て、化粧をすませ、腰に色づいた帯を巻きつけ、いつの間にかしなやかな寝巻姿の娘になった。だが娘になった彼女らは、皆ことごとく疲れと眠さのため物憂《ものう》げに黙っていた。それは恋に破れた娘らがどことなく人目を憚《はばか》るあの静かな悩ましさをたたえているかのように。或るものはその日の祈りをするために跪《ひざまず》き、或るものは手紙を書き、或るものは物思いに沈み込み、また、ときとしては或るものは、盛装をこらして火の消えた廊下の真中にぼんやりと立っていた。恐らく彼女らにはその最も好む美しき衣物を着る時間が、眠るとき以外にはないのであろう。
或る夜、彼女らの一人は、夜|更《ふ》けてから愛する男の病室へ忍び込んで発見された。その翌日、彼女は病院から解雇された。出て行くとき彼女は長い廊下を見送る看護婦たちにとりまかれながら、いささかの羞《は》ずかしさのために顔を染めてはいたものの、傲然《ごうぜん》とした足つきで出ていった、それは丁度、長い酷使と粗食との生活に対して反抗した模範を示すかのように。その出て行くときの彼女の礼節を無視した様子には、確《たしか》に、長らく彼女を虐《いじ》めた病人と病院とに復讎《ふくしゅう》したかのような快感が、悠々《ゆうゆう》と彼女の肩に現われていた。
六
梅雨期が近づき出すと、ここの花園の心配はこの院内のことばかりではなくなって来た。麓《ふもと》の海村には、その村全体の生活を支えている大きな漁場がひかえていた。上に肺病院を頂《いただ》いた漁場の魚の売れ行きは拡大するより、縮小するのが、より確実な運命にちがいない。麓の活躍した心臓を圧迫するか、頂の死《し》に逝《ゆ》く肺臓を黙殺するか、この二つの背反に波打って村は二派に分れていた。既に決定せられたがように、譬《たと》えこの頂きに療院が許されたとしても、それは同時に尽《ことごと》くの麓の心臓が恐怖を忘れた故ではなかった。
間もなく、これらの腐敗した肺臓を恐れる心臓は、頂の花園を苦しめ出した。彼らは花園に接近
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