した地点を撰ぶと、その腐敗した肺臓のために売れ残って腐り出しただけの魚の山を、肥料として積み上げた。忽《たちま》ち蠅《はえ》は群生して花壇や病舎の中を飛び廻った。病舎では、一疋の蠅は一挺《いっちょう》のピストルに等しく恐怖すべき敵であった。院内の窓という窓には尽く金網が張られ出した。金槌《かなづち》の音は三日間患者たちの安静を妨害した。一日の混乱は半カ月の静養を破壊する。患者たちの体温表は狂い出した。
しかし、この肺臓と心臓との戦いはまだ続いた。既に金網をもって防戦されたことを知った心臓は、風上から麦藁《むぎわら》を燻《くす》べて肺臓めがけて吹き流した。煙は道徳に従うよりも、風に従う。花壇の花は終日|濛々《もうもう》として曇って来た。煙は花壇の上から蠅を追い散らした勢力よりも、更に数倍の力をもって、直接腐った肺臓を攻撃した。患者たちは咳《しわぶ》き始めた。彼らの一回の咳は、一日の静養を掠奪する。病舎は硝子戸《ガラスど》で金網の外から密閉された。部屋には炭酸|瓦斯《ガス》が溜り出した。再び体温表が乱れて来た。患者の食慾が減り始めた。人々はただぼんやりとして硝子戸の中から空を見上げているだけにすぎなかった。
こうして、彼の妻はその死期の前を、花園の人々に愛されただけ、眼下の漁場に苦しめられた。しかし、花園は既にその山上の優れた位地を占めた勝利のために、何事にも黙っていなければならなかった。彼の妻は日々一層激しく咳き続けた。
七
こういう或る日、彼はこっそり副院長に別室へ呼びつけられた。
「お気の毒ですが、多分、あなたの奥様は、」
「分りました。」と彼はいった。
「この月いっぱいだろうと思いますが……」
「ええ。」
「私たちは出来るだけのことをやったのですが。……何分……」
「どうも、いろいろ御迷惑をおかけしまして、」
「いや……それから、もし御親戚の方々をお呼びなさいますなら、一時にどっと来られませんように。」
「承知しました。」
「長い間でお疲れでございましょう。」
「いや。」
彼はいつの間にか廊下の真中まで来てひとり立っていた。忘れていた悲しみが、再び強烈な匂《におい》のように襲って来た。
彼は妻の病室の方へ歩き出した。
――しかし、これは、事実であろうか。
彼はまた立ち停った。セロのガボットが華やかに日光室から聞えて来た。
――しかし、よし譬《たと》え、明かに、事実は妻を死の中へ引《ひ》き摺《ず》り込もうとしているとしても、果して、事実は常に事実であろうか。
――嘘《うそ》だ。と彼は思った。
彼は、総《すべ》ての自分の感覚を錯覚だと考えた。一切の現象を仮象《かしょう》だと考えた。
――何故にわれわれは、不幸を不幸と感じなければならないのであろう。
――何故にわれわれは、葬礼を婚礼と感じてはいけないのであろう。
彼はあまりに苦しみ過ぎた。彼はあまりに悪運を引き過ぎた。彼はあまりに悲しみ過ぎた、が故に、彼はそのもろもろの苦しみと悲しみとを最早|偽《いつわ》りの事実としてみなくてはならなかった。
――間もなく、妻は健康になるだろう。
――間もなく、二人は幸福になるだろう。
彼はこのときから、突如として新しい意志を創り出した。彼はその一個の意志で、総《あら》ゆる心の暗さを明るさに感覚しようと努力し始めた。もう彼にとって、長い間の虚無は、一睡の夢のように吹き飛んだ。
彼は深い呼吸をすると、快活に妻のベッドの傍へ寄っていった。
「おい、お前は死ぬことを考えているんだろう。」
妻は彼を見て頷《うなず》いた。
「だが、人間は死ぬものじゃないんだ。死んだって、死ぬなんてことは、そんなことは何んでもない。分ったね。」――無論、何をいっているのか彼にも分らなかった。
妻は冷淡な眼で彼を見詰めたまま黙っていた。
「お前は俺《おれ》よりも、そんなことは良く知っているだろう。死ぬなんていうことは、下らない、何んでもない、馬鹿馬鹿しいことなんだ。」
「あたし、もうこれ以上苦しむのは、いや。」と妻はいった。
「そりゃ、そうだ。苦しむなんて、馬鹿な話だ。しかし、生きているからって、お前は俺に気がねする必要は、少しもないんだ。」
「あたし、あなたより、早く死ぬから、嬉しいの。」と彼女はいった。
彼は笑い出した。
「お前も、うまいことを考えたね。」
「あたしより、あなたの方が、可哀想《かわいそう》だわ。」
「そりゃ、定《き》まってる。俺の方が馬鹿を見たさ。だいたい、人間が生きているなんていうことからして、下らないよ。こんなにぶらぶらして、生きていたって、始まらないじゃないか。お前も、もう死ぬがいい、うむ?」
「うむ、」と妻は頷いた。
「俺だって、もう直ぐ死ぬんさ。こんな所に、ぐずぐず生きてなんか、いたかない。お前も、うまいことをしたもんさ。」
妻は彼を見てかすかに笑い出した。
「あたし、ただ、もうちょっと、この苦しさが少なければ、生きていてもいいんだけど。」
「馬鹿な。生きていたって、仕様《しよう》がないじゃないか、いったい、これから、何をしようっていうんだ。もう俺もお前もするだけのことは、すっかりしてしまったじゃないか。思い出してみるがいい。」
「そうだわね。」と妻は言った。
「そうさ、もう大きな顔をして、死んでもいいよ。」
妻は彼の顔から彼の心理の変化を見届けようとするように、黙って彼の顔を見詰めていた。
「お前は何だか淋しそうだ。お前のお母さんを、呼んでやろうか。」
「もういい、あなたが傍《そば》にいて下されば、あたし誰にも逢《あ》いたかない。」と妻はいった。
「そうか、じゃ、」と彼はいって直ぐ彼女の母に来るようにと手紙を書いた。
八
その翌日から妻の顔は急に水々しい水蜜《すいみつ》のような爽《さわや》かさを加えて来た。妻は絶えず、窓いっぱいに傾斜している山腹の百合《ゆり》の花を眺めていた。彼は部屋の壁々に彼女の母の代りに新しい花を差し添えた。シクラメンと百合の花。ヘリオトロオプと矢車草《やぐるまそう》。シネラリヤとヒアシンス。薔薇《ばら》とマーガレットと雛罌粟《ひなげし》と。
「お前の顔は、どうしてそう急に美しくなったのだろう。お前は十六の娘のようだ。お前はいっぱいのスープも飲まないくせに、まるで鶏《にわとり》の十五、六羽もやっつけたような顔をしている。不思議な奴だ。さては、俺の知らぬ間に、こっそりやったと見えるな。」
「あの百合の花を、この部屋から出して。」と妻はいった。
百合の匂いは他の花の匂いを殺してしまう。――
「そうだ、この花は、英雄だ。」
彼は百合を攫《つか》むと部屋の外へ持ち出した。が、さて捨てるとなると、その濡れたように生き生きとした花粉の精悍《せいかん》な色のために、捨て処がなくなった。彼は小猫を下げるように百合の花束をさげたまま、うろうろ廊下を廻って空虚の看護婦部屋を覗《のぞ》いてみた。壁に挾まれた柩《ひつぎ》のような部屋の中にはしどけた帯や野蛮なかもじ[#「かもじ」に傍点]が蒸された空気の中に転げていた。まもなくここで、疲れた身体を横たえるであろう看護婦たちに、彼は山野の清烈な幻想を振《ふ》り撒《ま》いてやるために、そっと百合の花束を匂い袋のように沈めておいて戻って来た。
九
山の上では、また或る日|拗《しつこ》く麦藁《むぎわら》を焚《た》き始めた。彼は暇をみて病室を出るとその火元の畠の方へいってみた。すると、青草の中で、鎌《かま》を研《と》いでいた若者が彼を仰いだ。
「その火は、いつまで焚くんです?」と彼は訊《き》いた。
「これだけだ。」と若者はいいながら火のついた麦藁を鎌で示した。
「その火は焚かなくちゃ、いけないものですか。」
若者は黙って一握りの青草に刃《は》をあてた。
「僕の家内は、この煙りのために、殺されるんです。焚かないですませるものなら、やめてくれ給え。」
彼は若者の答えを待たずに、裏山から漁場の方へ降りていった。扁平《へんぺい》な漁場では、銅色《あかがねいろ》の壮烈な太股《ふとまた》が、林のように並んでいた。彼らは折からの鰹《かつお》が着くと飛沫《ひまつ》を上げて海の中へ馳《か》け込《こ》んだ。子供たちは砂浜で、ぶるぶる慄《ふる》える海月《くらげ》を攫《つか》んで投げつけ合った。舟から樽が、太股が、鮪《まぐろ》と鯛《たい》と鰹が海の色に輝きながら溌溂《はつらつ》と上って来た。突如として漁場は、時ならぬ暁のように光り出した。毛の生えた太股は、魚の波の中を右往左往に屈折した。鯛は太股に跨《またが》られたまま薔薇色の女のように観念し、鮪は計画を貯えた砲弾のように、落ちつき払って並んでいた。時々突っ立った太股の林が揺らめくと、射し込んだ夕日が、魚の波頭で斬《き》りつけた刃のように鱗光《りんこう》を閃《ひら》めかした。
彼は魚の中から丘の上を仰いで見た。丘の花壇は、魚の波間に忽然《こつぜん》として浮き上った。薔薇と鮪と芍薬《しゃくやく》と、鯛とマーガレットの段階の上で、今しも日光室の多角な面が、夕日に輝きながら鋭い光鋩《こうぼう》を眼のように放っていた。
「しかし、この魚にとりまかれた肺病院は、この魚の波に攻め続けられている城である。この城の中で、最初に討死《うちじに》するのは、俺の家内だ。」と彼は思った。
事実彼にとって、眼前の魚は、煙で彼の妻の死を早めつつある無数の勇敢な敵であった。と同時に、彼女にとっては、魚は彼女の苦痛な時期をより縮めんとしている情《なさけ》ある医師でもあった。彼には、あの砲弾のような鮪の鈍重な羅列《られつ》が、急に無意味な意味を含めながら、黒々と沈黙しているように見えてならなかった。
十
この日から、彼は、彼の妻を苦しめているものは事実果してこの漁場の魚か花園の花々か、そのどちらであろうかと迷い出した。何故なら彼女が花園にある限り、彼女の苦しい日々は、恐らく魚の吐き出す煙があるよりも、長く続いて行くにちがいなかったからである。
その夜の回診のとき、彼の妻は自分の足を眺めながら医師に訊《たず》ねた。
「先生、私の足、こんなに膨《ふく》れて来て、どうしたんでございましょう。」
「いや、それは何んでもありません。御心配なさいますな。何んでもありませんから。」と医師は誤魔化《ごまか》した。
――水が足に廻り出したのだ。
――もう、駄目だ。と彼は思った。
医師が去ると、彼は電燈を消して燭台に火を点《つ》けた。
――さて、何の話をしたものであろう。
彼は妻の影が、ヘリオトロオプの花の上で、蝋燭《ろうそく》の光りのままに細かく揺れているのを眺めていた。すると、ふと、彼は初めて妻を見たときの、あの彼女のただ彼のみに赦《ゆる》されてあるかのような健《すこや》かな笑顔を思い出した。彼は涙がにじんで来た。彼はソッと妻の上にかがみ込むと、花の匂いの中で彼女の額《ひたい》に接吻した。
「お前は、俺があの汚い二階の紙屑《かみくず》の中に坐っている頃、毎夜こっそり来てくれたろう。」
妻は黙って頷《うなず》いた。
「俺はあの頃が一番面白かった。お前の明るいお下《さげ》の頭が、あの梯子《はしご》を登った暗い穴の所へ、ひょっこり花車《はなぐるま》のように現われるのさ。すると、俺は、すっかり憂鬱がなくなっちゃって、はしゃぎ廻ったもんだ。とにかく、あの頃は、俺も貧乏していたが、一番愉快だった。あれからは、俺もお前も、若い身空で苦労をした。しかし、まア、いいさ。どっちも、わがままのいい合いをして来たんだからね。それに俺だって、お前に一度もすまぬようなことをして来てないし、お前も俺にあやまるようなことはちっともなかったし、まア、俺たちは、お互に有難がらなくちゃならない夫婦なんだよ。何んだか、そろそろおかしな話になって来たが、とにかく、お前が病気をしたお蔭《かげ》で、俺ももう看護婦の免状位は貰《もら》えそうになって来たし、不幸ということがすっかり分らなくなって来たし、こんな有り難い
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