わ》き上《あが》った。物音とてはしんしんと耳の痛む静けさと、時には娯楽室からかすかに上るミヌエットと、患者の咳《せき》と、花壇の中で花瓣の上に降りかかる忍びやかな噴水の音ぐらいにすぎなかった。そうして、愛は? 愛は都会の優れた医院から抜擢《ばってき》された看護婦たちの清浄な白衣の中に、五月の徴風のように流れていた。
 しかし、愛はいつのときでも曲者《くせもの》である。この花園の中でただ無為に空と海と花とを眺めながら、傍近く寄るものが、もしも五月の微風のように爽《さわや》かであったなら、そこに柔かな愛慾の実のなることは明かな物理である。しかし、ここの花園では愛恋は毒薬であった。もしも恋慕が花に交って花開くなら、やがてそのものは花のように散るであろう。何《な》ぜなら、この丘の空と花との明るさは、巷の恋に代った安らかさを病人に与えるために他ならない。もしも彼らの間に恋の花が咲いたなら、間もなく彼らを取り巻く花と空との明るさはその綿々《めんめん》とした異曲のために曇るであろう。だが、この空と花との美しき情趣の中で、華やかな女のさざめきが微笑のように迫るなら、愛慾に落ちないものは石であった。この
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