て。それから、皆の人にも。」
「ああ、ああ、心配しないでいいよ、もう直ぐ皆のものが来るよ。」と母はいった。
「あたし、まだ、待たなくちゃならないかしら。苦しいんだけど。」
「もう直ぐだよ。さっき、電話をかけたんだからね、もう直ぐなんだから。」
「あたし、さきへ死ぬわ、もう、苦しくって。」
「よしよし、安心してればいい。何も心配しなくてもいい。」と彼はいった。
妻は頷くと眼を大きく開いたまま部屋の中を見廻した。一羽の鴉《からす》が、彼と母との啜《すす》り泣《な》く声に交えて花園の上で啼《な》き始めた。すると、彼の妻は、親しげな愛撫の微笑を洩らしながら咳《つぶや》いた。
「まア気の早い、鴉ね、もう啼いて。」
彼は、妻の、その天晴《あっぱ》れ美事な心境に、呆然《ぼうぜん》としてしまった。彼はもう涙が出なかった。
「さようなら。」と暫くして妻はいった。
「うむ、さようなら。」と彼は答えた。
「キーボ、キーボ。」と母は呼んだ。
しかし、彼女はもう答えなかった。彼女の呼吸は、ただ大きく吐き出す息ばかりになって来た。彼女の把握力は、刻々落ちていく顎《あご》の動きと一緒に、彼の掌《てのひら》の中
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