し吸入が永久に妻の苦痛を救うものなら、彼は永久にその口を持ち続けていたかった。だが、この眼前の事実のように、吸入がただ彼女の苦しみを続けるためばかりに役立っているのだと思うと、彼は彼女の生命を引きとめようとしている薬材よりも、今は、彼女の生命を縮めた漁場の魚に、始めて好意を持ちたくなった。しかし、医師は法医学に従って、冷然としてなお一本の注射を打とうといい始めた。ただ、生き残っているもののためのみに。
「いや、いや。」と彼の妻は彼より先に医師の言葉を遮《さえぎ》った。
「よしよし、じゃ、もう打つのは止《よ》そう。」
「あなた、もうあたし、駄目なんだから。」と妻はいった。
「いや、まだ、まだ。」
「あたし、苦しい。」
「うむ、もう直ぐ、癒《なお》る。大丈夫だ。」
「どうして、あたしを、死なしてくれないんだろう。」
「そんなことは、いうもんじゃない。」
「こんなに苦しいのに、まだあたしを、苦しめるつもりかしら。」
今は、彼には彼女の死を希《ねが》う意志が怨《うら》めしかった。
「もうちょっとの辛抱《しんぼう》さ。直き苦しくなくなるよ。」
「あ、もう、あなたの顔が、見えなくなった。」と妻は
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