た。彼は涙がにじんで来た。彼はソッと妻の上にかがみ込むと、花の匂いの中で彼女の額《ひたい》に接吻した。
「お前は、俺があの汚い二階の紙屑《かみくず》の中に坐っている頃、毎夜こっそり来てくれたろう。」
妻は黙って頷《うなず》いた。
「俺はあの頃が一番面白かった。お前の明るいお下《さげ》の頭が、あの梯子《はしご》を登った暗い穴の所へ、ひょっこり花車《はなぐるま》のように現われるのさ。すると、俺は、すっかり憂鬱がなくなっちゃって、はしゃぎ廻ったもんだ。とにかく、あの頃は、俺も貧乏していたが、一番愉快だった。あれからは、俺もお前も、若い身空で苦労をした。しかし、まア、いいさ。どっちも、わがままのいい合いをして来たんだからね。それに俺だって、お前に一度もすまぬようなことをして来てないし、お前も俺にあやまるようなことはちっともなかったし、まア、俺たちは、お互に有難がらなくちゃならない夫婦なんだよ。何んだか、そろそろおかしな話になって来たが、とにかく、お前が病気をしたお蔭《かげ》で、俺ももう看護婦の免状位は貰《もら》えそうになって来たし、不幸ということがすっかり分らなくなって来たし、こんな有り難い
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